温泉むすめ伝「黒川姫楽の章」
その女性からは、ほのかにツツジの香りがした。
「……きれい……」
他人の横顔に見とれて目が離せなくなったのは、奥津かがみにとっては初めてのことだった。その女性は入浴用に髪をアップにしていて、白い肌と整った顔の輪郭がくっきりと強調され、湯気に潤んだ長い睫毛を上品に伏せていた。その佇まいはただ自然体で、なのに麗しく――かがみはその女性、黒川姫楽をただ見つめていた。
「どうしたの?」
「えっ。あ、えっと……!」
ゆったりと入浴していた姫楽がふと口を開いて、かがみははっと我に返った。
「……その、ここが有名な黒川温泉の洞窟風呂なんだな、って」
とっさに取り繕うと、人ひとりがようやく通れるほどの隘路でできた洞窟内に彼女の舌足らずな声が反響した。
熊本県・黒川温泉にある洞窟風呂といえば、温泉むすめの中で知らぬ者はいないほどの名物である。細く入り組んだ洞窟をそのまま浴槽代わりにした構造には露天風呂のような開放感はないが、妙に落ち着く。岩の浴槽になみなみと満ちた湯から立ち上る蒸気にほのかな照明の光が乱反射して、洞内は夕焼けの色に染まっていた。
「ここは黒川温泉再興の祖が手ずから掘ったお風呂よ。素敵な場所でしょう?」
「は、はいっ。お湯加減もちょうどよくて……」
ふわりと微笑む姫楽に、かがみはこくこくと頷く。すると、かがみの右隣にいる長門櫻が得意げに鼻を鳴らして会話に割って入ってきた。
「当然なの。お湯に浸かりながら座禅をするのだから、熱すぎたらのぼせちゃうの」
「ざ、座禅……?」
突然の話題に、かがみは驚いて櫻を見る。そんなかがみの反応をかえって櫻の方が不思議に思ったようで、彼女は「あれ? あなたは座禅をしに来たわけじゃないの?」と首を傾げた。
「かがみさんとは今日会ったばかりよ。私が誘って黒川に来てもらったの」
「へー、そうだったの。じゃあ、あなたは黒川温泉に来ること自体が初めてなのね」
かがみは「うん」と櫻に相槌を返す。
「かがみさん。ここはしばらく貸切だから、周りの目は気にせず浸かっていきなさい」
「あ、ありがとう……」
「むー……。姫楽さん、ずるいの。わたしのときは貸切にしてもらったことないの」
右隣の櫻が、かがみを挟んで左隣の姫楽に抗議している。黒川温泉で櫻と鉢合わせたのは全くの偶然だが、三姉妹の末妹であるかがみにとって、両隣に人がいるのは慣れたものだった。
「それで、かがみさん」と、姫楽が柔らかく言った。「学校では、どうして泣いていたの?」
泣いていた、という言葉に櫻がぴくりと反応する気配がしたが、彼女は何も訊いてこなかった。
かがみがこうして黒川温泉を訪れたのは、校庭の物陰でべそをかいていたところを姫楽に見つかったのがきっかけだった。その場では事情をうまく説明できなかったために、初対面の姫楽に手を引かれて半ば強引に連れてこられたのだが――不思議と、嫌悪感や不信感は湧いてこない。
「……自分のことをね、融通の利かない子だなあって思ってたんだ」
「融通?」と、櫻が小首を傾ける。
「わたし、お洗濯が好きなの。サッカー部のお姉ちゃんの練習着もわたしが洗ってるんだけど、今日の分を渡したときに、ちょっとだけ汚れが残ってるのを見つけちゃって……。それがどうしても悲しくて……」
思い返すと、安らいでいたはずのかがみの心がざわついてくる。彼女が鼻声で話していると、櫻が身を揺すって、洞内にぱしゃりと水音が響いた。
「そ、それで泣いたの?」
「うん……。そしたら、『なんでこんなことで泣いちゃうんだろう』『ちょっとくらい気にしない性格になりたい』って思えてきて、どんどん自分が情けなくなってきちゃったの……」
今にも消えそうな声で喋りながら、かがみは力なく俯いた。
「……練習着を渡すときに気付いたということは、お姉さんの前で泣いたのかしら」と、姫楽が尋ねる。
「ううん。部活の邪魔はしたくなかったから、泣いたのはそのあと……」
取るに足らない話だ、と自身でも分かっていた。姉に汚れを指摘されたわけでもなく、喧嘩したわけでもない。ただ自分の殻の中で悩んでいるだけの話では、姫楽も櫻もかける言葉が見つからないだろう。
「そう……。頑張ったわね」
しかし、姫楽はそう言ってかがみの目尻に浮かんだ涙の粒を優しく拭った。
まさか褒められるとは思っていなかったかがみの口から、「えっ?」と戸惑いの声が漏れる。彼女が顔を上げると、姫楽は静かに立ち上がって洞窟の入口へと歩いて行くところだった。
「精神集中の時間にしましょう。灯りを消すわ」
「やった! 待ってましたなの!」
姫楽の言葉に、櫻が顔を綻ばせた。
「え、えっ……? あの、精神集中って?」
かがみが櫻に尋ねると、彼女は楽しそうに「わたしもね」と語り出した。
「学校で座禅をしていたところを姫楽さんに見つかって、この洞窟風呂に連れてきてもらったの。ここは暗くて静かであったかいから、すごく集中できるのよ。姫楽さんもここで精神を研ぎ澄ますのが趣味みたいなの」
「趣味というわけではないわ。癖のようなものよ」
入口付近から姫楽が苦笑する声が聞こえて――ふっ、と洞内の照明が落ちた。
想像以上の暗さに、かがみは「ひゃっ!」と小さな悲鳴をあげる。初夏を迎えた今の時間はまだ明るいはずなのに、洞窟の中には夜の帳が下りたようだった。視界が全くきかなくなり、感じるのは湯の温もりと隣の櫻の気配、そして、とぷとぷとかけ流しの源泉が湧き出る音だけだった。
「コツは、余計な情報を削ぎ落としていくことよ。こうして暗くなれば、視覚には頼らなくなるでしょう」
そう言いながら、姫楽がかがみの隣に戻ってきた。
その言葉通り、彼女の声が先ほどよりもくっきりと聞こえる。凛としていて意思があり、かといって強張らず、自然体の――そんな姫楽の声に耳を傾けながら、かがみは静かに目を閉じた。
「姿勢を正し、呼吸を一定のリズムに整える。息を吸うときは口から、吐くときは鼻から」
「……すー、ふー……。すー、ふー……」
「上手ね。そうしたら、自然の音に耳を澄ましなさい。きっと素敵なものが聴こえるわ」
言われて、かがみは両耳に意識を集中させた。姫楽もそれ以上は言葉を重ねず、洞内が静謐に包まれる。
最初に聞こえたのは、隣にいる櫻の息遣いだった。
座禅が趣味というだけあって、彼女はこの僅かな時間で自分の世界に入り込んだらしい。規則正しく刻まれるその呼吸に合わせて息を継いでみると、かがみの呼吸音と櫻の呼吸音が同調し、やがて意識の外へと押しやられていく。
呼吸音が気にならなくなると、源泉が湧き出す水音がはっきりと聞こえてきた。
(……あれっ?)
だが、それだけではない。その中に混じって――もうひとつの音が聴こえる。
ほよほよほよほよ、ほよほよほよほよ。
――それは、「清流の歌姫」の鳴き声だった。
「ふふ。カジカガエルが鳴いているわね」
かがみの息遣いの変化を察した姫楽が、さりげなく呟く。
清流の歌姫、カジカガエル。「歌を詠じているよう」とも表現される鈴のような鳴き声が、ここまで届いていた。
「川沿いの温泉地といえば“河鹿蛙”なの。表の渓流で鳴いているのね」と、櫻も嬉しそうに言った。
かがみの地元の奥津温泉もカジカガエルで名高い温泉地である。幼いころから慣れ親しんだその鳴き声にじっと耳を傾けていると――学校で泣いたことが、ずいぶん昔のことのように思えてくる。
「……かがみさん。あなたの悩み事に、私から言えることは何もないわ」
不意に、姫楽がそう言った。
「そして、言うべきことも何もない。だって、あなたはもう自分のことをよく分かっていて、変わりたいという意思も持っているもの」
こくりと、かがみは小さく頷く。
初対面の相手なのに、姫楽の言葉はかがみの中に違和感なく浸透していく。褒められているのか、突き放されているのか分からない難解な一言も、「この人が言うならそうなのだろう」と、自然と受け止められる感覚がある。
「ありのままのあなたと、変わろうともがくあなた。私は、その両方を応援するわ」
その言葉を聞いていると、情けなくて流した涙さえ――「自分」をなす一部分であると思えるのだった。
「あーあ、姫楽さんは本当にずるいの。Adharaのみんなもそうやってこの洞窟で落としたの?」
「落としたって……。私は別にそういうつもりではないんだけど」
Fin.
written by Toshiaki Sato