温泉むすめ伝「犬鳴山命の章」
吾輩は犬である。名前は――村雨丸。吾輩がどこで生まれたとか、どういう経緯で温泉むすめの傍らを己が住処ときめたとか、そういう諸々はいずれ語ることとする。
何をおいても今日語るべきは、我が主人、南房総日由美と共に犬鳴山の修行場へと行った日のことであろう。
犬鳴山は修験道の霊場としておよそ1300年前に開山された国内最古の霊山で、現在でも修行にいそしむ修験者の姿を見ることができる。
その特異な情景が大作家を志す我が主人の琴線に触れたらしい。これは小説のネタになると我々は休日を返上して大阪の奥座敷へと向かうことと相成ったのだ。
「もふもふ……もふもふ……ポメラニアンかわいい……!」
修行体験の集合場所である広場にて、頬を緩ませて吾輩を撫でるのは犬鳴山温泉の温泉むすめ、犬鳴山命である。
彼女――命は頭頂に犬耳の飾りを、尻に犬の尻尾の飾りをつけた無類の犬好きのようであった。
確かにこの犬鳴山における義犬伝説は我々犬界で勇名を轟かせているが、同じ犬ならいざ知らず、温泉むすめが犬耳と尻尾をつけるほど感化されるものであろうか。兎角、命は一風変わったむすめのようである。
「うう~ん! 深山の匂い立つような神気に当てられて、次々にインスピレーションが湧いてくる! ここで修業したら、とんでもない大作が書けるような気がするよ~~!!」
「も、盛り上がってるね、日由美ちゃん……。お役に立てるよう頑張るね……」
命は主人と語らいつつも吾輩を撫でる手を止めない。いかに吾輩が愛くるしいポメラニアンであろうとも心は一門の男児である。通常これだけ執拗に撫でられればうんざりするものだが――命は実に心地よい撫で方を心得ていた。
ふたりの会話をただ聞いているのも退屈なので、腹を撫でさせてやろうと仰向けになると主人が言う。
「あ、お腹出した! 村雨丸、命ちゃんのことが気に入ったみたいだね~」
「……なのかな? うれしいなぁ」
喜ぶのは結構だが、吾輩は命を気に入ったなどとひとことも言っていない。ただ腹を撫でさせたら気持ちよさそうだから腹を見せたまでだ。
悪意はないのだろうが、主人は何かにつけて吾輩を可愛いポメラニアンとして扱おうとする。許せぬ。
勘違いされるのも癪なので、吾輩は「わん!」と鋭く異を唱えた。すると命が「わんわ~ん♪」と妙な犬マネを披露する。意味が分からず吾輩がじっと見つめていると、命は相好を崩した。
「えへへ……喜んでくれてるみたい」
「命ちゃん犬と喋れるの!? すごいすごーい! その話も後で聞かせてよ~!」
「えっと、たまに喋れてる気がするだけなんだけど……今日はばっちりみたい。ねー、村雨丸さん?」
まったくもってばっちりではない。
一層盛り上がるふたりの語らいを呆れて眺めていると、不意に命と目が合った。命は思案するように一瞬俯くと「わんわん……わふん?」と言った。
吾輩に何かを伝えようとしたのだろうが、やはりまったくわからない。
さて、修行開始である。主人が支度を済ませたのを確認して、命は合図であるほら貝を吹いた。
「それでは山行から。私の後にしっかりついてきてね」
命を先頭に主人と吾輩は山道を登り始めた。原初の森とも形容される荘厳な景色の中、急峻な山道を無心に登る。
「はぁ……はぁ……! 思ってたよりも……厳しい……ッッ! でも……この筋肉の悲鳴が……より真に迫った表現を……わたしの筆に宿らせるのぉぉぉ~~~!!」
「無理は禁物だよ……。途中で退山するのは全然恥ずかしいことじゃないから、きついと思ったら言ってね」
汗を滴らせて喘ぐ主人とは別に、命はさも涼し気な顔で先行していく。
と、斜面の上に立った命はまたも吾輩を見つめ「わんわん……?」と言った。
何やら意味ありげな視線であるが、とんと意味はわからぬ。その意を込めて「わん!」と一声強く吠えてみたが、命はなぜか嬉しそうに微笑んで、再び歩いて行ってしまう。一体何のつもりだろうか?
以降も命は修行の折々に妙な犬語で話しかけてきて、そのたびに吾輩はよくわからぬと吠え続けた。
結局――彼女の真意がわかったのは、修行も大詰め、滝行へと辿り着いた時だった。
「うぎぎぎぎ! 滝の冷たさ、鋭さを身に刻めわたしぃぃ! 大自然の峻烈な経験が! わたしの描写力を! より確かなものにするぅぅぅ~~~!!!」
創作の鬼もかくや、歯を食いしばって滝に打たれる主人を見守っていると、隣の命が安堵の息を突く。
「村雨丸さん、今日は私の悩みをたくさん聞いてくれてありがとう……」
はて、悩みとは? 訳も分からず吾輩が命を見上げていると、彼女は照れくさそうにはにかんで続ける。
「日由美ちゃんの修行の途中に相談するのもどうかと思ったけど……。村雨丸さんが優しくお返事してくれるから、ついついたくさん話しかけちゃった。私もまだまだ修行が足りないね……」
うん……、うん? では、吾輩は悩み事の相談を受けていたのか? 今までの妙な犬語がそれか?
「じゃあ約束どおり夜に広場で待ってるね……。よろしくね……!」
そして、吾輩はいつの間にか命と何かを約束したらしい。切実な表情と声音から、深刻な悩みであるようだが……。
だが、我らは温泉むすめと犬。その苦悩を真の意味で理解することはかなわない。
そもそも吾輩たちは今日初めて会ったのだ。いうなれば他人と言って差し支えない。いかに真剣な悩みであろうとも他人であれば聞く義理などない。今日はたくさん歩いたし、夜は主人の横でぐっすり横になるのがよかろう。
♨ ♨ ♨
夜である。吾輩は広場にいた。
別に命の悩みを聞いてやろうという殊勝な心掛けの為ではない。今日は夜風が心地よく、月も冴え冴えと吾輩を呼んでいたので、何とはなしに夜歩きへ出ただけのことだ。
広場には吾輩だけではなく、大勢の犬がいた。地元近くに住んでいる者共らしい。吾輩だけが特別に呼び出されたわけでないのは少々癪に障るが、まあよい。地元の住犬たちは皆、目を輝かせて広場の中央にしつらえられた木製の台を見つめている。その輝きは月の光の反射ではなく、己の心内から発される期待の光輝であった。
「きたぞ!」とある一匹が吠えた。すると隣の犬が吠え、またその隣が……と連鎖していき、やがて大合唱となる。
歓声の海を割り現れたのは、命であった。彼女は月光を照り返す、美しいアイドル衣装をその身にまとっていた。
命は台に乗ると、まず吾輩……そしてその他の犬たちを見回し可憐な微笑みを浮かべる。
「みんな、今日は私のライブに来てくれてありがとう……!」
命は歌った。照明は月明り、ステージは木の台、観客は犬というこれまた奇妙なライブだが、彼女の見る者を魅了する煌びやかな歌唱や踊りは、確かにアイドルのそれであった。
何事もそうであるが、楽しいひと時とは一瞬で過ぎ去るものである。
命のライブは終わり、犬たちは各々の住処へと戻っていった。と、入れ替わるように我が主人がやってきた。
「村雨丸~! どこーーー! あなたがいなくなったらわたし、わたし……っ!
……おや? この悲壮感をお話にすれば、全米が泣ける超大作が書けるんじゃ……?」
「わん!? わんわんわんッッ!!!」
思わず吠えた。いくら主人が苛烈な文士といえど、こういう時は迷わず吾輩の身を案じてくれてもよかろう。
「あ! いたーー!!」
吾輩と命に気づいた主人は、慌てて駆け寄ってくる。
「よかった村雨丸~! 起きたらいなくなってたからびっくりしたよ、も~~~!!」
「ご、ごめん、日由美ちゃん……! 私が村雨丸さんにライブを見てほしいって頼んじゃったから……」
「ライブ……?」
「実は私……温泉むすめ日本一決定戦に参加したいと思ってて……」
命は俯くと、少し照れたふうに喋り出す。
「でも、人前で歌ったり踊ったりするのはやっぱり恥ずかしいし……。だから、友達の犬さんの前で練習してて……。村雨丸さんはアイドルの日由美さんの犬さんだから、私のパフォーマンスを見てもらいたくて……」
命は、吾輩を真っすぐに見て言った。
「村雨丸さん、私、素敵なアイドルになれるかな?」
「わんわん」
まあ、悪くはないであろう、そう吾輩は答えた。すると、目を見開いた命は頬を上気させた。
「ありがとう、村雨丸さん……私、村雨丸さんに恥じないような、立派なアイドルになってみせるよ……!」
「命ちゃん、今わたしにも聞こえたよ! \命ちゃんならスーパーアイドルになれる!/って、熱い叫びが!」
いや、吾輩そこまで言っておらぬよ。
やはり言葉の壁は大きい。今後も吾輩の声は彼女たちには届かぬのであろうと思うと少々気疲れする。
「なれるかな……私、スーパーアイドルに……?」
はにかむ命は小首をかしげ可憐に笑った。その笑顔は、人も犬も魅了する、不思議な温かみがあった。
これから命はアイドルとしての道を歩みだすのだろうが、どのような道を歩むかは誰にもわからぬ。
まあ、もしスーパーアイドルになった暁には、その誕生を担った犬として撫で繰り回してもらうのも悪くないか。
Fin.
written by Ryo Yamazaki