温泉むすめ伝「大子紅葉の章」
空き教室の戸を開けると、雨のせいか、九月下旬とは思えない蒸し暑さだった。
「あっちー……」と思わず呟いて、南知多まゆのは廊下に出る。制服の着物の衿をつまんで胸元にぱたぱたと風を送りながら歩いていると、後ろで鴨川茉凛が言った。
「あ~あ! まゆ姉とのバーベキューほんと楽しみにしてたのに~! 雨のバカ~!」
「まーまー、バーベキューはいつでもできるしさー」
まゆのは笑って窓の外を見た。午前中に降り出した雨は、放課後になった今もまだ降り続いている。
今日、まゆのは茉凛と午後の授業をサボって、南知多温泉にあるオーシャンビューのバーベキュー場でバーベキューをするはずだった。ところがこの雨である。茉凛の「どうせやるなら晴れた日にきれいな海を見ながらおいしいお肉が食べたい!」という一言もあって、あえなくバーベキューはキャンセルとなったのだ。
そのくせ茉凛はバーベキューに未練たらたらで、いつまでも雨に文句を言っている。サボり魔で遊ぶことに人一倍情熱を注ぐ彼女は、楽しみにしていた予定を雨に邪魔されたことが悔しくてたまらないようだった。
気持ちは分かるが仕方ない。妹分である彼女に他の楽しみを提供すべく、まゆのはさっさと頭を切り替えていた。
「とりま、うち来るー? それかビーチランドに行くのもアリだけど」
そう提案しながら、二人で階段を下りようとした時だった。
「ひゃっほー! 雨だ雨だーい!!」
上の階から元気のいい足音とともに大きな声が聞こえ、まゆのたちが階段を見上げた瞬間――
「じゃ~~んぷ!!」
「「うわーーっ!?」」
踊り場から黒い影が飛び降りてきて、二人は悲鳴をあげた。
ダン! という音が床に響く。目の前に着地したのは見知らぬ少女だった。着物の袖をまくり上げて小麦色の肌をした腕を肩まで露出している彼女は両手を挙げ、着地を決めた体操選手のようなポーズをしている。
「こんにちは! 今日はいい雨だね!」
「……へ?」
「雨の日ってわくわくするよね! わたし、明日のこと考えると今から楽しみで楽しみで仕方なくて!」
まゆのは面食らったが、少女はそんなことは全く気にせず、うっとりと何かに思いを馳せている。かと思うと彼女は「そうだ! これあげるよ!」と言って制服の袂に手を突っ込み、中から取り出したものをまゆのと茉凛に差し出した。赤く色づいたおいしそうなりんごだ。
「……え、りんご……?」
まゆのたちが困惑しながらも受け取ると、少女は再び袂からりんごを取り出し、今度は豪快にかぶりついた。
「うん! 今年もうまいっ!!」
少女はリスのように両頬を膨らませ、一心不乱にりんごを頬張る。そんな姿を見ているうちに食欲を刺激されたのだろう。突然、茉凛がりんごにかぶりついた。
「え!? ちょ、茉凛!?」
「ほんとだ! おいし~!」
茉凛の言葉に、少女が白い八重歯を覗かせる。
「でしょ? これぞ幻の奥久慈りんご!」
「へー、奥久慈りんごっていうんだ~! 初めて食べたけど甘くておいしいね! おかげでムカムカした気持ちがちょっとだけ晴れたかも~!」
笑顔の茉凛を見て、まゆのも微笑んだ。とりあえず茉凛の機嫌が直ってよかった、まーあたしは後で食べるけどね、と思いながら。
「ムカムカ? なんかあったの?」と、少女が首を傾げる。
単刀直入に訊かれて、茉凛はべらべらと事情を話し始めた。今日は二人で海を眺めながらバーベキューをするはずだったこと。しかし雨が降り出してしまい、仕方なくキャンセルしたこと――。
「――ってわけで、ちょーっとムカムカしてたんだよね~!」
最後に茉凛がそう言うと、それまで黙って話を聞いていた少女が「なるほどね!」と言って笑った。
「だったら明日、わたしの地元においでよ! 雨が降った次の日しか見れない、すっごいものがあるんだ!」
「「……すっごいもの……??」」
得意げな少女を前に、まゆのと茉凛は首を傾げるのだった。
♨ ♨ ♨
翌日、打って変わって秋晴れの空の下、まゆのは茉凛を連れて、りんごをくれた少女――大子紅葉の地元、茨城県の大子温泉へ向かった。紅葉と合流して、彼女に案内されるがままに歩いていくと、『袋田の滝トンネル』なるトンネルの入口に着いた。このトンネルを抜けた先には、日本三名瀑のひとつ、『袋田の滝』があるという。
緩やかな上り坂のトンネルを歩き始めてすぐに、ザーッという滝の音が聞こえてきた。
「うーん、いい音! わくわく♪」
「くれぽよ、テンション高いなー」
紅葉は相当楽しみにしているらしく、山を駆ける野ウサギのようにぴょんぴょん飛び跳ねながら歩いている。
すると、いつものヘソ出しコーデをした茉凛がまゆのの耳元に口を寄せて、言った。
「ね~、まゆ姉。くれぽよが言ってた“すっごいもの”って滝のことなのかな~?」
「えー、ちがうんじゃね? 滝はいつ見ても滝っしょ!」
「だよね~!」
「だよだよー」
海沿いの町に住むまゆのにとって、山にある滝は縁遠い存在である。それゆえ滝といわれても、いまいちピンときていなかった。だが、トンネルを進むほどに大きくなっていく滝の音に、次第に心がざわつき始めた。
この先に、何かすごいものが待っている――。
その直感は間違いではなかった。第一観瀑台に到着したまゆのたちを待ち受けていたのは、高さ120メートル、幅73メートル、大岩壁を4段にわたって流れ落ちる凄まじいスケールの滝だったからだ。
「……すごっ……」
まゆのは立ち止まり、滝を眺めた。隣で茉凛が興奮して何やら叫んでいるが、滝から目を離すことができない。
滝は轟音とともに水しぶきを上げて、滝つぼに向かって落ちていく。その迫力はまるで人間を寄せつけない野生の獣のようだった。傘を差した観光客がより近くで見ようと試みては、猛烈な水しぶきを浴びて断念している。
自然の偉大さを全身で感じながら、まゆのがただただ滝を眺めていると――紅葉の声がした。
「すっごいでしょ? これが袋田の滝だよ! 雨が降った次の日は水がどーんと増えてこうなるの!」
そう言うなり紅葉は傘も差さずに滝へ向かっていく。そして案の定、大量の水しぶきを浴びて悲鳴をあげた。
「「くれぽよ!!」」
まゆのたちがハラハラしながら見守っていると、紅葉が振り返って叫ぶ。
「まいなすいおん、気ん持ちいい~~~!!」
マイナスイオンどころではない気もするが、気持ちよさそうな彼女の表情の前にそのツッコミは野暮だ。
「あははっ! なんかシャチのショー見てるみた~い! わたしもわたしも~!」
茉凛が紅葉のもとへ走っていく。まゆのは水しぶきを浴びてはしゃぐ茉凛を見ながら、紅葉に感謝していた。りんごをくれたり、滝に連れてきてくれたり、自分では思いつかない方法で茉凛を笑顔にしてくれたのは他でもない彼女だ。
「……くれぽよ、さんきゅ!」
紅葉に近付いてそっと呟くと、彼女は山猫のように大きな目をぱちくりさせて言った。
「え、何が?」
まゆのは一瞬目を丸くして、それから声を上げて笑った。そっか、この子はその時々で自分がしたいと思ったことをしてるだけなんだ。面白い子だなー、なんて思った――その時、
「ほーら! まゆ姉もそんなところにいないで~……えいっ!」
茉凛に背中を押され、まゆのは滝の前に突き出された。
悲鳴をあげる間もなく激しい水しぶきが降り注ぐ。これではせっかくのギャルメイクも台無しだ。
「あはは! まゆ姉、びしょぬれ~!!」
「~~~まり~ん!! そっちがその気なら、こっちにも考えが――あ!!」
まゆのは茉凛に反撃しようとして、気付いた。
彼女の下着がばっちり透けている。見せブラで来たまゆのと違い、茉凛は普通の下着のようだった。
「ちょ、茉凛! 見えてる! 見えてるから!」
「えっ?」と言って、ヘソ出しコーデの茉凛はなぜかすでに見えているヘソを隠す。
「いや、そっちじゃなくて!」
「楽しいねー! これだけ浴びたら打たせ湯の代わりになるね!」
「んなわけないっしょ! って、くれぽよも見えてるしー!!」
まゆのは叫びながらも、今までにない楽しさを感じていた。
紅葉には出会った時から驚かされてばかりだが――山のように広くて大きな心を持ち、それでいて風のように爽やかで飾らない。そんな彼女と一緒に楽しい時間を過ごせるのなら、雨が降るのも悪くないと思うのだった。
著:黒須美由記