温泉むすめ伝「南房総日由美の章」
千葉、南房総の海を臨む宿に南房総日由美は居を構えていた。
珈琲の豊かな香りで常に満ちている自室兼書斎には、日由美お気に入りの重厚な書き物机がある。その机の前に腰かけて創作に打ち込むのが彼女の日課であるが、今日は筆を置き、心安い友人との語らいを楽しんでいた。
客用のソファに腰を下ろし、濃い目に入れた珈琲で一服しているその友人――湯河原伊露羽に、日由美は尋ねた。
「我ら一角の文士を志す者に、アイドルとはこれ如何に!」
スクナヒコの号令一下、師範学校の生徒を巻き込んで開催された温泉むすめ日本一決定戦。
あまりに突拍子なく始まった壮大なそのイベントは、日々小説のネタを探して非日常的な出来事を求めてさまよう日由美の心をがっちり捕らえた。捕らえたのだが――。
伊露羽は丁寧な所作でカップをソーサーに置くと、その涼やかな視線を日由美に向ける。
「……アイドル、それ即ち光輝溢るる宝石の如きもの。文士とは全てにおいて対極である」
「そう、その通り!」
我が意を得たりとばかりに日由美は立ち上がって言い募る。
「アイドルなんてキラキラまばゆい光の存在、日陰者の文士とは対極の存在でしかない! それが『温泉むすめ日本一決定戦』の勝負テーマになっちゃったんだもん、勝つ見込み無し! ああもう、無念この上ないよぉ~!」
「やる前から諦めるなんて貴女らしくないわね……挑戦してみるのも悪い事じゃないと思うけれど」
「なら端的に言おう! 恥ずかしいと!!」
堂々と言い切った日由美を伊露羽は少しの間無言で見つめていたが「それはわかるわ……」と呟くと珈琲を啜った。
「でしょ~? 人前で歌って踊ってなんて、恥ずかしすぎるよ。もしアイドル活動が作品の為になるなら歯を食いしばってでもやってのけるけどさぁ。ねー、村雨丸?」
日由美は足元に寝そべる愛犬、村雨丸を抱き上げた。彼は今日もふわふわで、最高の撫で心地であった――と。
「……ん? これ……」
村雨丸の長い毛の下から覗く地肌に違和感があった。何か痣のようなものが見える。
「『仁』って書いてあるふうに見えるよね……」
席を立って横へとやってきた伊露羽も、村雨丸の痣を一瞥して頷いた。
「まごうかたなき『仁』の文字ね」
そう、村雨丸の真っ白な毛をかき分けた先にある桃色の地肌に、何となく『仁』と読める痣があったのだ。
「こんな痣、今まではなかったのに………………もしかして」
日由美は、思わず生唾を飲み込んだ。『仁』の文字、と言われたら脳裏に浮かぶのはただ一つ。
「八犬伝の物語が現代によみがえったってこと!?!?」
ここ南房総は日本最大の長編伝奇小説、南総里見八犬伝ゆかりの地である。
八犬伝とは、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌――仁義八行と言われる文字が刻まれた数珠の玉を持った若者たちを主人公とする物語だ。その仁義八行の一字『仁』の文字が村雨丸の体に浮かび上がったということは……。
もちろん村雨丸は数珠ではなくただの犬。だが、そのあまりにも特異な真ん丸フォルムをして、日由美は常々思っていた。この犬、普通の犬とは違うのではないかと。何か特別な存在なんじゃないかと。
全ては日由美の睨んだ通り――――待ち望んだ日が、遂にやってきたのだ!
「村雨丸を仁義八行の玉のひとつと見立てるなら、同様の犬があと七匹いる……!?」
普通なら何を馬鹿なことをと一蹴に付す妄言であるが、ここにいるのは志を同じくする文鬼である。新鮮な物語の香りを感じた伊露羽は問うた。
「八匹の犬を集めて何をするのかしら」
「八犬伝は『勧善懲悪』の物語、きっと倒すべき悪がいるの!」
嬉々として語る日由美の瞳は爛々と輝く。
「倒すべき悪! わたしたちの身の回りの巨悪と言えば……スクナヒコ様しかない!」
一方の伊露羽も創作回路に火が入ったのか、白い頬に朱が滲む。
「なるほど……個性豊かな温泉むすめたちに振り回され、見るも無残に精神をすり減らしてしまったスクナヒコ様は、その怒りと悲しみを社会への報復として表現するしかなかったのね。そしていつしか――」
伊露羽は即興の一節を朗々と語り始めた。
――いつしか、スクナヒコは数多の温泉地の洗い場にあるシャンプーとトリートメントの中身を混ぜ合わせ『これを浴びた人間は爆死する』という奇妙な妄想に浸って矮小な自尊心を満たすようになっていた。
「哀れね、スクナヒコ様……。誰かが追いかけてあげないと……」と、伊露羽が睫毛の長い目を伏せる。
「もちろん追うよ!」日由美も同じく即興の物語で応えた。「きっと、その置手紙に重大なヒントが隠されてて……。そう、その手紙は実は暗号だったんだ! 暗号にはこう書かれているの――」
――仁義八行の犬を集めよ!
「くっ、あえて行き先を知らせることで、じわじわなぶり殺しにしてやろうっていう魂胆か! なんて外道なの、魔王・スクナヒコ!」
「もはやスクナヒコ様は自分で自分を抑えることができなくなってしまっているのね……。南房総でひとりたたずむあの方は一体どんな気持ちなのかしら……」
――ここは南房総。夜の白浜海岸にやってきていたスクナヒコは、汀に立ち己に巣くう悪意を見つめていた。悪とは何か……誰しもが持つこの感情に、どう折り合いをつければよいのか……葛藤するスクナヒコは、懺悔の手紙を読んだ『誰か』が自分を止めに来なかったら入水しようと決めた。海が自分を呼んでいる。ふと、そんな気がしたのだ。
「自己の醜悪さに耐え兼ねたら、あとはもう、海に消えるしかできないわね……」
「けぇぇぇぇぇ~~~!?!? 海と融合しようとしてるの!? 早く止めないと世界が混沌に包まれちゃうよ!」
――悪の力の高まりを感じた勇者・日由美! スクナヒコが海と溶け合い現世の殻を捨て、より強大な大いなる闇へと変貌しようとしているのを察知したのだ! スクナヒコを阻止するため、一刻も早く『仁義八行の犬』の居場所を突き止めねばと焦るが、しかし一向に手掛かりはつかめない!! どうする、日由美!?
「なんとか、なんとかしないと!」
「もう無理よ、日由美さん。暗澹とした生に望みを失ったスクナヒコ様は、今まさに海へ……。
……いえ、待って。これは……このまばゆい光は――」
「光……光!? 伊露羽ちゃん、それってまさか!」
「そう、灯台の――」
「――アイドル!?」
「……ん?」
「ま、まさかアイドルが――」
――仁義八行の犬を探す手がかりであったとは! だが確かに、闇を裂くのは古来より光。光の象徴――すなわちアイドルに、闇を祓う力の鍵が秘められているのは必然と言えよう……!! こうして勇者・日由美はアイドルとして『温泉むすめ日本一決定戦』に参加し、伝説の犬を集めようと決意するのだった!!
「……私は、差し込んだ一筋の灯台の光に闇の中を生きる導を垣間見た、という展開にしようと思ったのだけれど」
伊露羽の言葉は宙に浮く。それほどまでに日由美は自身の物語に没頭していた。
「うおぉぉぉぉ~~! スクナヒコっ! アイドル勇者・日由美が貴様の世界征服の野望を打ち砕いてみせるぞ!!」
大盛り上がりの日由美を正気に戻そうとする伊露羽だったが……ふと、その伸ばした手を引っ込める。
「まあ、いいか……正気に戻った時、日由美さんは一体どんな反応をするのかしら。ねぇ、村雨丸さん……?」
伊露羽の言に、村雨丸は冷めた目で返す。主役になるはずの日由美の愛犬はすっかり蚊帳の外だった。
「待ってなさい魔王・スクナヒコーーーーーーーーーー!!!」
こうして日由美は『仁義八行の犬』を集めて世の平穏を守るため、アイドルとなる決意を固めるのであった。
Fin.
written by Ryo Yamazaki