温泉むすめ伝「温泉津佐間の章」
ある夏の夜のことだった。
その日は比較的涼しい風が吹いていて、縁側に持ち出したロッキングチェアに体を預けてうとうとするのにもってこいの気候だった。大正時代の趣が残る石州瓦屋根の街並みに香る潮風を感じながら、温泉津佐間は夢とうつつの間で心地よくたゆたっていた。
彼女は一日の半分近くをこうして微睡んで過ごす。地元の温泉地を盛り上げるべく鼻息が荒い多くの温泉むすめと違い、恬淡として仙人のような毎日を送っている佐間は特異な存在だった。
「おい佐間、起きよ」
と――潮風に乗って、彼女の名を呼ぶ声がした。
四百年の永きにわたり聞き慣れた声である。佐間はまぶたを重たげに開いて、かの名を呼び返した。
「……んぅ。スクナヒコさまですか~?」
「夏でも温泉津にはいい風が吹くのう。どうじゃ、一杯」
見ると、少年のような背格好をした人影が佐間に向かって徳利を掲げている。
日本の温泉むすめを統括する天上神・スクナヒコ。
幾度となく酒を酌み交わした上司の誘いを受けて、佐間はのっそりと身を起こした。
♨ ♨ ♨
「……思いつきで始めた『温泉むすめ日本一決定戦』も、それなりに軌道に乗ってきてな。各地のむすめたちが我こそはと轡を並べて相競っておるよ」
「そうですか~。それは、よかったですね~」
「そろそろ次の企画を打つべきかのう……。夏じゃし、『温むす♡ビーチバレー大会』なんかはどうじゃろ?」
「ん~……。いいのではないでしょうか~」
スクナヒコの言葉に相槌を打ちながら、佐間は口元に寄せた猪口を傾ける。話を聞いているのかいないのか、佐間の相槌はいい加減なものばかりだが、スクナヒコがそれを咎めることはなかった。
弾む会話を楽しみたいのなら、あるいは天上神たる自身をもてなしてほしいのなら、佐間より相応しい温泉むすめはいくらでもいる。全国に三千柱もいるむすめたちの中で、スクナヒコがあえて温泉津温泉に来たことの意味を、佐間はよく弁えていた。
「……このお酒は、北海道のじざけですね~……」
そう言って、佐間はそれとなくスクナヒコを促す。軽薄な調子で語っていたスクナヒコはぴたりと口を噤み、猪口に残っていた日本酒を一息に飲み干した。
「北海道の……いや、あえてどの温泉地かは言うまい」と、スクナヒコは次の酒を注ぎながら言った。「代替わりの日が近いむすめがおってな。なんとかその日を延ばせないかと泣きつかれた」
「そうですか~……」
少しだけ情を込めて、しかし相変わらず恬淡と、佐間は相槌を返した。
代替わり。
スクナヒコが佐間のところに来るのは決まってその話題の時であることを、佐間は知っていた。
赤子として産まれる温泉むすめは、現地の人々の手によって人間と同じように育てられ――やがて“大人”になると神階が上がり、人の目には見えなくなってしまう。当代の温泉むすめが『代替わり』すると、再び赤子の温泉むすめが産まれて次代を担う。
代替わりを迎える年齢は――個人差が大きいが、平均で――三十歳前後だと言われている。人間の平均寿命よりもはるかに短いその数字に疑問を覚える温泉むすめも少なくない。
大好きな人々との別れが待っているのだ。「それが定めだから」で納得できることではないだろう。
「近ごろはクレームが多くて困る。昔と比べて人間の平均寿命が延びたせいで、相対的に短く感じるんじゃろうな」
「ですかね~……」
「だからといって、誰かを特別扱いしてはこれまでのむすめたちに示しがつかん」
再び猪口を思い切りよく仰いで、スクナヒコは意味ありげな目で佐間を見た。
「佐間。おぬしのように『温泉むすめ日本一決定戦』で優勝でもすれば話は別だがな」
「……」
佐間は相槌を返さず、おもむろに徳利を持ち上げてスクナヒコに酌をすることにした。
そして、注がれた酒の揺らぎが収まるころ――佐間は「いいえ」と、スクナヒコの言葉に初めて否定を返した。
「……わたしのじだいは、『温泉娘番付決定戦』というなまえでしたよ」
♨ ♨ ♨
佐間が産まれた時代は、十六世紀末にまで遡る。
当時の日本は世界有数の銀輸出国で、世界で産出される銀のおよそ三分の一が日本で採掘されていたという。その産出量の大部分を支えていたのが、温泉津温泉をその一部とする石見銀山であった。
往年の温泉津温泉の賑わいを、佐間は昨日のことのように思い出せる。そのころの彼女は――今の姿からは想像もつかないかもしれないが――温泉津に来た多くの鉱夫や商人を楽しませる歌姫、まさに「アイドル」であった。仕事に疲れた人々を少しでも癒さんとして想いを籠めた彼女の歌声は時の人々の評判を呼び、やがて佐間は、スクナヒコが主催した『温泉娘番付決定戦』で優勝するまでの存在になったのだ。
決定戦の優勝者には、スクナヒコの力によって願い事をひとつだけ叶える権利が与えられる。
その権利を勝ち取った佐間が願ったのは、「代替わりをしないこと」だった。
大好きな温泉津温泉と、温泉津温泉の人々と――ずっと関わり続けていたいという選択だった。
♨ ♨ ♨
温泉津の風が、佐間の頬を撫でていく。
佐間が四百年の昔を思い返している間、静かに潮風に前髪を揺らしていたスクナヒコが、ふと口を開いた。
「わしとて、むすめたちに悲しい別れを強いるようなことはしとうない」
「……」
「佐間、おぬしはいま何を想う? 代替わりをしない……その選択に後悔はないか?」
珍しく、スクナヒコの瞳が揺らいでいる。佐間は曖昧に笑って答えた。
「後悔……。ないわけではないです~」
肉体の体力は願いの力で保たれても、心の体力までは維持できない。佐間がいつも眠そうなのはそのためだ。
心の体力が衰えると、新しいことを始めるのが億劫になっていく。
「代替わりのじょうけん……。“大人”になったときというのは、『自分の限界に気付いたとき』なのです。『この温泉地のために自分にできることはもうない』と心のどこかで悟ってしまったとき、“その日”が訪れる」
そうなったら後進に道を譲るのも温泉むすめのあるべき姿なのだと、今の佐間には分かる。
自分が代替わりをしていれば、と考えたことがある。さすれば――その良し悪しは差し置いて――今の人々の視点に立った施策を試みることができただろう。こんな体力のない自分ではなく、何としても温泉地を盛り上げるために先頭に立って試行錯誤するような温泉むすめが温泉津にもいたはずだ。
「……歳を取ったな、佐間。確かに悟っておる」
ゆったりと話す彼女の言葉を聞いたスクナヒコは、そう言ってにやりと笑った。
「それに、代替わりはかなしいことばかりではありませんよ~」と、佐間は補足する。「『これ以上自分にできることはない』と思えるということは、うらがえせば『やれることはやりきった』ということですからね~」
「……」
人と同じように育つからできること。
人とは異なる存在だからこそできること。
四百年生きてみて、佐間は今さらに自分たち――「温泉むすめ」の役割を自覚したのだった。
「温泉むすめは、温泉地にあたらしい風を吹き込む存在……人間と同じさいくるではいけないのです」
「……ふん」
スクナヒコは次の酒を注ごうと徳利を手に取ったが、中身が空になっているのに気付いて不満そうに立ち上がった。「まさか、おぬしに説教される日が来ようとはな」
自嘲気味に笑うスクナヒコの瞳からは揺らぎの色が消えている。お開きの時間のようだ。
佐間はほっと肩の力を抜いて、とうに空いていた自分の猪口をスクナヒコに返した。久しぶりに言葉を重ねたせいで、安心した拍子に強い眠気が襲いかかってくる。
「して、今回の『温泉むすめ日本一決定戦』。おぬしはエントリーするのか?」と、スクナヒコが尋ねた。
「そのつもりです~……」
佐間はなんとか答える。すると、スクナヒコは呆れた調子で「マジか」と眉をひそめた。
「おぬしが本気を出したら優勝候補じゃぞ……。さすがにそれは興醒めだろうが」
「あら~……。そのときはそのときですよ~……」
もはや佐間は上のまぶたが下のまぶたにくっつかないよう持ちこたえるので精一杯だった。
夢とうつつの狭間で、彼女は幼いころから見守ってきたむすめたちの面影を思い起こしていた。スクナヒコに縁の深い西日本の三湯――玉造彗、別府環綺、道後泉海の三柱などは、よく出雲に遊びに来ていたものだ。
新しい時代の旗手を担えるむすめたちが、今も立派に成長している。佐間に不安はなかった。
「四百年前のむすめを超えられないようでは、温泉地にあたらしい風を吹かせることはできませんからね~」
著:佐藤寿昭