温泉むすめ伝「鈍川まなみの章」
それは蒸し暑い夏の午後だった。師範学校の昇降口を出て歩いていた秩父美祭は、グラウンドの隅にクラスメイトの箱根彩耶を見つけた。特定の部活には所属していないものの運動神経抜群の彩耶は、今日は陸上部の練習に助っ人として呼ばれたのだろう。ユニフォーム姿で休憩していた彼女に声をかけると、彼女は小さく手を振って言った。
「おー、美祭! どうしたの、夏休みに学校なんか来て」
「いや~、ちょっと先生に用事頼まれちゃってさ~。これから帰るとこ!」
「ああ。美祭、学級委員長だもんね」
美祭はクラスの学級委員長を務めている。クラスメイトに推薦されて渋々引き受けたのだが、生来の責任感の強さで生真面目に仕事をこなしているうちに、今ではやりがいを感じ始めていた。
「いつもご苦労さま。肩でもお揉みしましょうか、委員長」
「いやいや、あたしは別に……。あはは~!」
照れ笑いを誤魔化すようにグラウンドの方を向いた時だった。美祭は彩耶と同じくクラスメイトの鈍川まなみを見つけた。陸上部の彼女は、炎天下にも関わらず無表情で、一人で黙々とストレッチをしている。
――そうだ。まなみちゃんとよく部活で一緒の彩耶ちゃんなら、あの理由が分かるかもしれない――。
そう思った美祭は真剣な表情でひとり頷くと、彩耶に耳打ちした。
「あのさぁ……、まなみちゃんってどういう子……?」
「えっ、まなみ? なんで?」
「実はさぁ、あたし、まなみちゃんからよくタオルもらうんだよね。なんでなのかなぁ……。いや、あたしだけじゃなくて他の子にもタオルあげてるみたいなんだけど、明らかにあたしだけ多いっていうか。
……もしかしてあたし、タオルも持ち歩いてない女の子だと思われてる~~~!?」
「それは考えすぎじゃない!?」と彩耶は素早くツッコミを入れて、続けた。
「うーん……。たぶん悪意はないと思うけど、気になるならもう少し様子を見てみたら? まなみはああ見えて結構分かりやすい子だよ。好きなものもはっきりしてるし」
「知ってる! サイクリングが好きなんでしょ?」と、美祭は相槌を打った。「サイクリングかぁ……。あたし、サイクリングしたことないからな~……。楽しいのかな? まなみちゃん、サイクリングのどこが好きなんだろ?」
「ま、美祭……。そんなに連呼してると……!」
彩耶が美祭を止めようとした、その時だった。
「サイクリング、ですか?」
「ひっ!!」
突然背後から声がして、美祭は悲鳴を上げた。おそるおそる振り向くと、いつのまにか後ろにまなみが立っていた。無表情の瞳の奥が、まるで真夏の太陽のようにギラギラと輝いている。
「美祭さん、今、サイクリングって言いましたよね……? それも何度も」
「へっ? あ、あの……」
まなみは美祭の手を両手で包み込むように握ると、力強く頷きながらこう言った。
「行きましょう。サイクリング……!!」
溜息をつく彩耶の横で、美祭はもはや頷くしかなかった――。
♨ ♨ ♨
美祭と彩耶はまなみに連れられ、彼女の地元である愛媛県今治市へやってきた。サイクリングターミナルでクロスバイクをレンタルして、さっそく『西瀬戸自動車道』――通称『しまなみ海道』を尾道方面へと走り出す。
『しまなみ海道』は愛媛県今治市と広島県尾道市を7つの橋で結ぶ、全長約60㎞の自動車道だ。サイクリングロードを併設しているため、瀬戸内海に浮かぶ島々を眺めながらサイクリングを楽しむことができる。「サイクリストの聖地」として有名なこの道を、美祭は全く知らなかったが――走り出してすぐにその所以を知った。目の前に青い海や緑豊かな島々といった、海のない埼玉県では見ることのできない雄大な景色が広がっていたからだ。
「おぉ……。おぉぉ~~! すっご~~~い!!」
思わず感嘆の声を上げる美祭に、先頭を走るまなみがちらりと振り返る。その表情はどことなく嬉しそうだ。
最後尾を走る彩耶は「もう、美祭! なんで私までー!」と不満げだったが、美祭は聞こえないフリをする。
美祭はすっかりサイクリングに魅了されていた。澄み渡った青空のもと、風を浴びながら、どこまでも続くような壮大な橋の上をまっすぐ走っていく。額を流れる汗さえも気持ちがいい。
「うひゃ~! 風が気持ちいい~! こりゃ、まなみちゃんがサイクリング好きな理由が分かるわぁ~!」
美祭が叫ぶと、まなみは喜びを隠し切れない様子で、何度も後ろを振り返りながら言った。
「分かっていただけましたか! そうなんです、風と一体になって、どこまでも走っていけそうなこの感じ……! この気持ち良さこそがサイクリングの醍醐味なんです!!」
「分かる分かる! ホンット気持ちいいね! なんかテンション上がってきたぁ~!
♪はぁ~、今日も今日とて祭りの如くぅ~♪ しまなみ街道、駆け抜っけてぇ~♪ あ、それ♪」
お祭りが大好きな美祭は、テンションが上がるとどこでも歌い出してしまう癖がある。教室で何度か見かけたことのある美祭の楽しそうな姿を見て、まなみも微笑んだ。
「ふふっ。美祭さん、いい感じです……! それなら私も……!」
まなみが少しだけペースを上げる。それに気付いた美祭もニヤリと笑って加速した。
「おっ、やるねぇ! だったらあたしも楽しんじゃうよ~! ♪はぁ~、海は広いよ、歌わにゃソンソン♪」
「えっ!? ちょっと待ってよー。美祭、そんなに飛ばして大丈夫ー!?」
最後尾を走る彩耶が叫ぶ。美祭は笑顔で「大丈夫、大丈夫~!!」と叫び返した。こんなに気持ちいいのなら、きっとどこまでも走っていける――そう思った。
しかし、そうはいかなかった。先頭を走るまなみの背中がどんどん小さくなっていって――つまり、まなみがやる気を出し過ぎて、一人で暴走を始めてしまったのである。美祭は必死に食らいつこうとしたが、初心者の美祭が熱狂的サイクリストのまなみに追いつけるはずもなく、涙目になって叫んだ。
「まなみちゃ~ん! あたしもうムリ! ムリムリムリ~~~っ!!」
だが、美祭の声に気付きもせず、まなみは一人で走り去ってしまったのだった――。
♨ ♨ ♨
瀬戸内海に浮かぶ大三島にある『サイクリストの聖地碑』の前で、美祭はくたくたの体を地面に投げ出していた。
そんな美祭をいたわるように、彩耶と、戻ってきたまなみが座っている。美祭にとっては相当な距離を走ったはずなのに、彼女たちはロングランが得意なスポーツ少女だけあって、疲れたそぶりはほとんどない。
「だから“そんなに飛ばして大丈夫?”って言ったのに」
彩耶に言われて、美祭は息も絶え絶えに「うぅ……。ごめ~ん……」と謝る。
と、それまで黙っていたまなみが口を開いた。
「謝るのは私の方です。ごめんなさい……!」
美祭は「えっ?」とまなみを見て――思わず体を起こした。まなみが今にも泣きそうな顔をしていたからだ。
「ま、まなみちゃん!? どーしたの!?」
「私、美祭さんにはいつも感謝してて……。だから今日はその感謝のしるしに、サイクリングを心ゆくまで楽しんでもらいたいって……そう思ってたのに、こんなことになってしまって……」
「あ、あたしなら大丈夫だよ! それに感謝って何? あたし感謝されるようなことなんて何もしてないよ?」
「そんなことないです。美祭さん、私たちのために学級委員長の仕事頑張ってくれてるじゃないですか。私、美祭さんみたいにみんなをまとめることなんてできないって思って、いつも感謝してて、それでタオルを……」
「タオル……。えっ? そうだったの!?」
まなみはこくりと頷くと、バッグの中からタオルを取り出し、美祭に無言で差し出した。いつも美祭がもらっているのと同じ、ふわふわのタオル――まなみがくれるタオルは感謝の証だったのだ。
「ね? ああ見えて結構分かりやすい子だって言ったでしょ?」
彩耶に耳打ちされ、美祭は「……ほんとだね!」と言って笑った。
鈍川渓谷沿いにひっそりとたたずむ鈍川温泉。単純温泉で泉温が低い鈍川温泉ではないが、まなみはいつも無表情で低カロリーな女の子だと思っていた。だが、その無表情の下にはありあまるほどの可愛い一面があるのだ――。
「ありがとう。でもその気持ちだけで十分だよ。あたし、なんだかんだ言って委員長の仕事楽しんでやってるし!」
美祭はそう言って、差し出されたタオルを両手で包むと、まなみに優しく返した。
「それに――まなみちゃんのおかげで今治タオルの良さを知ったから、これからは自分で買うね!」
「美祭さん……!」
笑い合う二人を見て、彩耶も微笑んだ――その時だった。まなみが笑顔で言った。
「美祭さんは埼玉県秩父市在住でしたね。埼玉県なら取り扱い店舗があるので私がご案内します。ではさっそく向かいましょうか、サイクリングで!」
「「……え?」」
目が点になる二人をよそに、まなみは颯爽とクロスバイクにまたがり、走り出した。
「ちょ……まなみちゃん!? 待って待って! そんな……ねぇ! ウソでしょぉ~~~!?!?」
美祭の叫び声が空しく響く。いつも無表情で低カロリーなように思えるまなみだが、実はとっても可愛くて、そして――好きなことには一直線、どこまでも走っていける温泉むすめなのである。
著:黒須美由記