story おはなし

温泉むすめ伝「作並日果の章」

 まさか師範学校に、あんなに素敵な人がいたなんて――。

 

 大手町梨稟はそんなことを思いながら、本棚の陰からお目当ての“あの人”を見つめていた。師範学校にある一棟建ての図書館で図書委員を務める“あの人”は、今日も受付の席に座って、落ち着いた所作で事務作業をしている。

 

「夏月さん、お待たせしてすみません。あとで一緒にこけし集めに行きましょうね」

 

 受付のそばには梨稟の同級生の鳴子夏月もいる。夏月と“あの人”はこけしが有名な温泉地の温泉むすめという縁で長い付き合いらしく、ずいぶん親しげだ。「おう! 僕、ちゃんと待てるよー!」と胸を叩く夏月に“あの人”がふわりと微笑みかけると、彼女の琥珀色の髪が絹のようにさらさらと流れた。

 

「あぁ……。やっぱり素敵……」

 

 梨稟が“あの人”――作並日果と運命の出会いを果たしたのは、一週間前の放課後のことだった。

 

♨          ♨           ♨

 

 その日、梨稟は夕方になって慌てて図書館にやってきた。返却期限ギリギリの本を取り出すべく鞄と悪戦苦闘しながら受付のカウンターに向かっていった彼女は――ふと顔を上げた瞬間、美しい光景に目を奪われた。

 カウンターに座って、読書をしている女性がいた。採光用の窓から差し込む紅の夕日がその髪を鮮やかに染め、美しく輝かせている。彼女の長い睫毛は頬に影を落とし、幻想の世界から抜け出してきたような雰囲気を纏っていた。

 まるで一枚の絵画のような光景に梨稟が見とれていると、女性はふいに本を置いて、傍らにある金属製の小さな水筒を手に取った。すらりとした指先が水筒の蓋を開け、ゆったりと水筒を口元に運んでいく。見慣れない形の水筒を傾けるその姿はあまりに大人っぽくて、梨稟はしばらくの間女性から目を離すことができなかった。

 彼女はまさに、梨稟が理想とする大人のお姉さんだったのだ――。

 

♨          ♨           ♨

 

 その日以来、梨稟は彼女に会うために図書館に通うようになった。同級生の夏月を頼って、彼女が「作並日果」という名前であることも聞き出し、一日にして憧れの存在となった彼女に話しかける機会を窺い続けてきたのだ。

 

「よ……よし、行くわよ! 今日こそあの人から、大人のお姉さんになるための秘訣を聞き出してやるんだから!」

 

 気合を入れると、梨稟は本棚の陰から飛び出した。

 受付に座る日果に向かって一直線に歩いていく――が、先に梨稟に気付いたのは日果ではなかった。

「あー! 梨稟ちゃんだー!」と、目ざとく梨稟を見つけた夏月が手を振ってくる。梨稟はドキリと身を強張らせ、さも今気付いたかのように「あ……あら、夏月。奇遇ね」と、彼女に愛想笑いをした。

 本命の女性である日果は、そのやりとりを不思議そうに見ていたが――ふわりと梨稟に微笑みかけて、言った。

 

「こんにちは。最近よくいらっしゃいますね」

「……えっ?」

「えー? 梨稟ちゃん、図書館によく来てるの? なんでー?」

「え、えっと、それは……」

 

 日果が自分の図書館通いに気付いていたことに梨稟が嬉しくも動揺していると、夏月が無邪気に続ける。

 

 違うわよ! とツッコミたい気持ちを抑え、梨稟は頷いた。大人のお姉さんはうまく話を合わせるものなのだ。

 

「ふふ、そうでしたか」

 

 そんな梨稟の思惑は露知らず、日果は柔和な笑みを浮かべて立ち上がる。

 

「梨稟さん――でしたよね。私でよければお手伝いしますよ」

「えっ、ほんとに!? あ、いや……ええ。それじゃお願いするわ! ……します!」

 

 温泉むすめ師範学校には「図書室」と「図書館」がある。各校舎の中にある「図書室」が学生たちの課題スペースだとすれば、日果が受付を務める一棟建ての「図書館」は、一般的な小説や実用書だけでなく、全国の温泉に関する資料や専門書を収蔵する公共のスペースで、申請すれば一般の人々も利用することができる。

 梨稟は――日果と話せれば何でもいいのだが――とりあえずお薦めの小説を教えてもらうことにして、彼女に連れられて小説のコーナーにやってきた。夏月は隣の雑誌コーナーに留まり、ペラペラと雑誌をめくっている。

 

「では、まず梨稟さんの好みを教えてもらえますか? こんな作品が好き、とか」と、日果が言う。

「え、えっと、オシャレで大人っぽいのがいいわ! ……いいです!」

 

 梨稟が緊張しながら答えると、日果は「大人っぽい……」と呟き、それから真面目な顔をして言った。

 

「それはつまり――甘いカクテルよりウイスキーが好き、という感じですね?」

「は? ウイスキー?」

 

 思わず梨稟は訊き返す。なぜここでお酒が出てくるのだろう?

 

「では……そうですね。こちらはいかがですか?」と、困惑する梨稟をよそに日果が一冊の本を棚から取り出す。

 

「森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』です。大学生の青年と、彼の想い人である黒髪の乙女が繰り広げる恋愛ファンタジー小説で、電気ブランが出てくる、とっても面白い物語なんですよ」

「電気ブラン? 家電か何か……ですか?」

「ふふ……いえ。電気ブランというのは、明治時代に生まれたブランデーベースのカクテルの名前です。ほんのり甘い風味が特徴で、作中には電気ブランを真似て作られたという“偽電気ブラン”が登場するんですよ」

「へー……。恋愛小説にはあまり興味ないけど、ブランデーってオシャレな感じがしていいですね!」

 

 本を読むだけでなく、作中に出てくるお酒までしっかり調べて自分の知識にしているなんて……。やっぱり大人のお姉さんはこうでなくちゃ――と梨稟が思っていると、日果はなぜか嬉しそうな顔をして言う。

 

「ふふっ。ブランデーに惹かれるなんて、梨稟さんはなかなか渋い趣味をしてらっしゃるんですね」

「えっ!? そ、そうですか?」

「はい。私、梨稟さんとは仲良くなれそうな気がします」

「……!!」

 

 思いがけない日果の言葉に、梨稟の心は舞い上がった。憧れの人に認めてもらったような気がして鼓動が高鳴る。

 梨稟が内心で喜びを噛みしめていると、日果は次の一冊を棚から取り出した。

 

「他には、こちらの『探偵はバーにいる』はいかがでしょう? 著者は東直己。札幌の歓楽街・ススキノを舞台に、探偵と便利屋を営む主人公が事件を解決するハードボイルド小説です。ジャックダニエルなどのお酒と一緒に物語が進んでいくんですよ」

「ジャックダニエル? 人の名前じゃなくて、お酒なんだ」

「ええ。アメリカを代表するウイスキーです。『チャコール・メローイング』という伝統的な製法で作られるお酒で、滑らかな口当たりと甘み、カラメルなどに例えられるほろ苦さが特徴なんですよ」

「へー……。すごいですね、日果さん……!」

 

 またも丁寧に教えてくれる日果に、梨稟はもはや尊敬の念すら抱き始めていた。

 自分の目は狂っていなかった。彼女は外見だけではなく、内面も美しい。知的で、上品で、梨稟のような年下にも優しく手ほどきをしてくれる。日果こそ自分が目指すべき大人のお姉さんなのだ――と、梨稟が確信した時だった。

 

「まあ、でも私はやっぱり地元のウイスキーが好きで、いつもこっちを飲んじゃうんですけどね」

 

 日果は腰に提げたホルダーから金属製の水筒を取り出した。初めて会った日も彼女の傍らにあったあの水筒だ。

 

「え? ウイスキー……?」

 

 梨稟が目をぱちくりさせていると、いつのまにかやってきた夏月が日果を指差して言った。

 

「あー! 日果おねえちゃん、飲んじゃダメだよ! まだお仕事中でしょー?」

「きゃっ!? ち、違いますよ! 今日は飲もうとしていたわけでは……」

「梨稟ちゃん、気を付けてね! この人いつでもどこでもウイスキー薦めてくるから!」

「は? ……は!? はあああああ~~~~~っ!?!?

 

 静かな館内に梨稟の叫び声が響き渡った。

 一週間前、夕日を浴びながら金属製の水筒を傾けていた日果の姿が脳裏に甦る。まるで一枚の絵画のようなお姉さん。内面も美しいお姉さん。その彼女が仕事中に飲んでいたのが、ウイスキー……。

 

「そんな……。そんなの、アル中のおじさんじゃない……!」

 

 自分は一体この人のどこを見ていたのか――。梨稟が茫然自失していると、ふいに甘い声がした。

 

「しぃーっ……」

 

「へ?」と梨稟は我に返って、ハッとする。日果が人差し指を唇に当て、梨稟をじっと見つめていた。

 

「――静かにしなきゃ、だめですよ?」

 

 採光用の窓から降り注ぐ陽光が日果を照らしていた。琥珀色の髪が風になびいて、きらきらと輝いている。

 蠱惑的に微笑む日果を前に、梨稟は息をするのも忘れて見とれた。ウイスキーの衝撃で受けた心の傷が、彼女の甘い声にたちまち癒されていくようだった。

 一体、どちらが本当の日果なのだろうか。梨稟は思わず両手で顔を覆うと、その場にしゃがみ込んだ。

 

「…………参りました…………」

 

 夏月と日果が首を傾げる。

 

「梨稟ちゃん、どうしたの?」

「ふふ。梨稟さんって面白いんですね」

 

 ウイスキーのように奥深い日果の魅力は、まだまだ解明できそうにない。

著:黒須美由記

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