温泉むすめ伝「秩父美祭の章」
師範学校の桜が散り、五月の連休も明けた頃。保健室には体調不良を訴える生徒がたくさんやってくる――。
「ありがとう。治佳ちゃんが看てくれたおかげで、だいぶ良くなったよ」
そう言ってベッドから降りる山中そららの顔色を見て、四万治佳は「良かった」とにっこり微笑んだ。
白衣を着ているため一見保健室の先生のようにも見える彼女は、実のところそららと同じ師範学校の生徒である。しかし医学の知識が豊富なため先生からの信頼も厚く、時々代理で保健室の番を任されているのだ。
「みんなと同じで五月病かと思ったけど、腹痛だったとはね。今お茶を淹れるから、ゆっくりしていって」
「いいのかい? それじゃ、いただこうかな」
涼やかに笑うそららだが、保健室にやってきた時はあまりの腹痛に顔が歪んで今にも倒れそうな状態だった。彼女は注目されることが苦手なのにもかかわらず、授業中に教師に指名されてしまい、しかも答えは不正解。かなり恥ずかしい思いをしたらしい。その出来事がきっかけで、“持病”の腹痛が始まってしまったのだそうだ。
持病というのは心配だけど、何はともあれ元気になってくれて良かった――。
そう思いながら、治佳がお茶を淹れようとした時だった。勢いよくドアが開き、次の“患者”が入ってきたのは。
「はるちゃぁぁん! 助けてぇぇ~~~!!」
「美祭!?」
治佳の友人の秩父美祭である。どういうわけか、いつも笑顔の彼女が大粒の涙を流していた。
「あたし、もうやだぁ~! 何もしたくない~! 一人でひっそり生きたいぃ~!!」
美祭とは長い付き合いだが、こんな姿は今まで見たことがない。治佳は美祭を椅子に座らせて優しく背中をさすり、彼女を落ち着かせてから事情を聞いた。
美祭の地元、秩父には年間300以上のお祭りがあり、毎年そのほとんどを手伝っているという。その上、彼女は今年から学級委員長になり、アイドル活動まで始めたため、多忙を極めているらしい。
「そしたら、なんかもうやだ~! ってなっちゃって……」
「ふむふむ。ハードワークが続いてたのね」
治佳が美祭の言い分をカルテにしたためていると、それまで黙っていたそららが突然口を開いた。
「わかる。わかるよ、その気持ち……」
「へっ?」と目を丸くする美祭に、そららは妙に目を輝かせながら言う。
「ねえ、それならいっそ何もしない時間を作ればいいんじゃないかな?」
「無理無理! そんなのしたことないもん! だって、何もしないって……どうすればいいの?」
「そうだねえ……。例えば――橋の上で佇むとか」
「……橋の、上……??」
ピンときていない様子の美祭とそららのやりとりを、治佳は不安げに見つめていた――。
♨ ♨ ♨
治佳たちは、美祭の地元にある『秩父公園橋』に場所を移した。
秩父公園橋は秩父のシンボル的な建造物のひとつで、荒川にかかる橋長530mの斜張橋である。主塔から右岸と左岸に張られたケーブルが美しいハープの弦のようにも見えることから、『秩父ハープ橋』とも呼ばれている。
「それじゃ、さっそく始めようか」
そららの合図で、治佳たち三人はそれぞれ“橋の上で佇む”ことになった。
「じゃ、あたしはあっちの方で佇むね!」と駆けていく美祭の背中を、治佳は心配そうに見つめる。“佇む”と言われてもどうすればいいのか分からない。果たしてこんなことで美祭の症状が改善するのか気がかりで、保健室の先生に事情を話して代理を切り上げてきたのだが――当の美祭はやる気十分で、さっそく深呼吸を始めている。
横目でそららを見ると、彼女は目を閉じ、静かに空を仰いでいた。武甲山から流れてくる風の音に耳を傾けているのだろうか。その佇まいは渓流のように涼やかで、治佳はつい見とれてしまう。
と、少し離れた場所からドタバタと足音が聞こえてきた。見れば、さっきまで大人しく深呼吸をしていたはずの美祭が、不審者のごとく同じ場所をぐるぐると歩き回っている。
あれが美祭流の“佇む”なのだろうか。治佳が首を傾げていると、目が合った美祭が笑顔で駆け寄ってくる。
「はるちゃん! ねえねえ、一緒にしりとりしない?」
「しりとり!?」
ここに来た目的をすっかり忘れたかのような発言である。治佳は深く溜息をついて言った。
「何言ってるの。“何もしない”をするために来たんでしょ? しりとりなんてしたら意味ないじゃない」
「うっ……。そ、そうなんだけど~。なんか一人でいると落ち着かないっていうかウズウズするっていうか~……」
呆れる治佳の横でクスクス笑う声がした。いつのまにかそららが近くに来ていたようだ。
「美祭ちゃんって面白いね。それなら、しりとりの代わりにここで一句詠むのはどうだい?」
「えっ? 一句って、俳句?」
治佳の疑問に答えるように、そららが涼やかな笑みを浮かべて言う。
「俳句を詠む時って、目の前の景色や今の気持ちをどう表現しようか一生懸命考えるだろう? それなら美祭ちゃんも景色に集中できると思うし、うまく佇めると思うんだ」
「おぉ~! みんなで俳句いいね~! やるやる~!!」
やはりここに来た目的を忘れていそうな美祭のテンションに、治佳は不安を覚える。だが、患者がやる気になっているのなら止めない方がいい。治佳は自分も参加すべく、そららに倣って目を閉じ、風の音に耳を傾けた。
気持ちのいい風に吹かれて――ぱっと目を開けると、雄大な武甲山の姿が視界に飛び込んできた。
「……“新緑を まといし彼方の 武甲山”……」
「えっ! はるちゃん、もうできたの!? 早い~!」と慌てる美祭の横で、そららが微笑む。
「いい句だね。初夏の武甲山がうまく表現されてる。私は……“夏浅し 川風ただよう ハープ橋”かな」
「へえ……。爽やかでそららさんらしい句ね。すごく素敵だと思うわ」
「ほ、褒めすぎだよ……。うっ、お腹が……」
嬉しそうにお腹を押さえるそららを見て、こっちの患者も難儀だな、と治佳は苦笑いする。
とはいえ、自分で俳句を詠んでみたおかげで“佇む”のコツが分かった気がする。そららの言うとおり、この方法なら美祭でも落ち着いて景色に集中することができるかもしれない。
だがしかし、「できたぁ!」と叫んだ美祭が自信満々に詠んだ句は――
「“ハァ~秩父 秩父夜祭 ヨーイヤサ”!!」
目の前の素晴らしい景色の描写もなければ、季語もない。唖然としている治佳たちをよそに、美祭は得意げに説明し始めた。この句は秩父音頭の歌詞から作ったとか、秩父といえばやっぱり秩父夜祭だとか……。
「あはは。何もしたくないとか言ってたけど、頭の中はお祭りでいっぱいじゃないか」と、そららが笑う。
それを聞いて、治佳は思った。確かに、美祭は病人というには少し違う気がする。
「美祭」と、治佳は切り出した。「今どれくらい仕事を抱えてるの? スケジュールを教えてくれる?」
「え? うん! え~っと、今日は帰ってから和太鼓の練習でしょ~、明日の放課後は学級委員の定例会議で、そのあと夜からお祭りの出し物の打ち合わせでしょ~、んで、その本番が土曜日……あれ? 日曜日だったかな?」
「覚えてないの? 手帳に書いてあるなら見ていいわよ?」
「へへっ。手帳書くの面倒くさくて持ってないんだよね~。えっと、どっちだっけ? う~んと、え~っと……」
「……なるほど。これだわ」
考え込んでいる美祭を見て、治佳はようやく彼女の“治療法”に気が付いた。
「美祭。手帳を買いましょう」
「へ? 手帳? だからぁ、そういうの苦手で……」
「自分の予定が管理できてないから、いつも何かに追われてる気がするのよ。頭で覚えようとしないで、手帳に書いたら忘れなさい。予定を書き込むのが面倒なら、シールを使ったりして工夫すればいいの。そうすれば、今以上に有意義な時間を過ごせると思うわ」
「ほんと? そしたら今よりもっともっと……あたしがやりたいこと全部できるかな?」
「もちろんよ。とにかくスケジュール管理に挑戦してみて、それでもダメだったらまた私のところに来なさい!」
「はるちゃん……!」
美祭に元気いっぱいの笑顔が戻ってくる。解決の糸口が見えた途端に「もっともっと」とは欲深い子だな、と心の中で笑いながら、治佳は励ますように彼女の肩を叩いた。
「うん、あたしやってみる! お祭りの手伝いも学級委員長もアイドルも、頑張っちゃうよぉ~!」
「ふふ、秩父夜祭か。一度行ってみたいな」
無事に美祭の悩みが解決したのを察して、そららがさりげなくそう言った。その瞬間、美祭の目が輝く。
「おっ、お目が高い! 秩父夜祭は来なきゃ損だよ! 大勢のお客さんの前で太鼓叩くとすっごく気持ちよくて――あ、今年はそららちゃんも一緒に叩く? ちょうど今日練習日だから、地元のみんなに紹介するよ!」
「えっ? いや、私は注目されるのは苦手で――」
治佳があっと思った時には時すでに遅し、美祭はそららを引きずるようにして遥か前方を歩いていた。
いつもお祭り気分の美祭の心は、すでに十二月の秩父夜祭へ飛んでしまっているのだろう。彼女はまるで太鼓のバチを掲げるように、片手を空に突き上げて叫ぶ。
「なんか元気出てきたぁ! いよぉ~し! 今日も明日も明後日も……ワッショーーーイ!!」
著:黒須美由記