温泉むすめ伝「赤倉茅咲の章」
温泉むすめたちが通う『温泉むすめ師範学校』。東京はお台場にあるその敷地内には、ささやかな温泉が湧いている。温泉文化や作法について学ぶ科目「温泉学」の実習に使うため、天上神兼校長のスクナヒコが作った「神」工温泉だ。
「は~~……。これから帰るとこだってのに散々だったデース……」
放課後。奏・バーデン・由布院は湯上がりの髪を乾かしながらひとりごちた。帰り際に突然のゲリラ豪雨に見舞われた彼女は、温泉に浸かって冷えた体を温めたところだった。
「制服は……うーん……。乾いてねーデース……」
制服の乾き具合をチェックする。他に利用者もいないので、奏は下着一丁の格好だ。
「備え付けの浴衣をレンタルする手もありマスけど、洗って返すの面倒デスし……。ま、いっか。濡れてるけど制服を着て帰るデース!」
大ざっぱな性格の奏は制服の上衣を引っつかむと、一気に腕を通そうとして――
「――お待ちになって!」
「へっ?」
前触れもなく乱入してきたロール髪の少女に、その動作を遮られた。
少女は間髪入れずにまくし立てる。
「温泉成分がたっぷりついた貴女のお肌……。その状態で制服を着ると生地を傷めてしまいますわよ! 浴衣はそれを避けるためにあるのですから、ぜひ使うべきですわ!」
「え、えっ? そ、そういうことなら」
奏はその勢いに気圧されて頷いた。少女が満足そうに笑う。
「分かればよろしい。これは入浴後の基本中の基本ですから、ゆめゆめお忘れなく」
「あー……。助言ありがとうございマース。誰か知りませんけど……」
「あら。わたくしのことをご存知ないなら、ぜひ覚えて帰ってくださいな」
そう言って、少女は特徴的なロール髪をファサッとかき上げた。
「わたくし――温泉マスターの赤倉茅咲と申します!」
♨ ♨ ♨
温泉マスターとは、新潟県赤倉温泉を発祥とし、温泉の基礎知識や正しい入浴法を身につけた者に贈られる称号である。赤倉茅咲はまさにその赤倉温泉を地元とする温泉むすめであり、温泉マスターの超上位資格「五つ星」を有している。
「ふふふ……。また温泉文化を豊かにしてしまいましたわ……」
奏を由布院温泉まで送り届けた茅咲は恍惚とした表情で師範学校に戻ってきた。
「温泉マスター発祥の地の温泉むすめとして、皆さんに正しい知識をつけていただかなくては。……さて。他に温泉のことで困っていそうな子は……」
背筋をすらりと伸ばし、モデルのような立ち姿で周囲を見回す。こうして放課後に温泉指南のできる相手を探すのが茅咲の趣味である。
「――むっ! あれは、こんぴら桃萌さんですわ!」
見ると、正門前広場で「温泉学」の教科書を片手に首をひねっているむすめがいた。
こんぴら桃萌といえば、1997年に源泉が湧出し、温泉郷として売り出し始めたばかりの新人温泉むすめである。新人ということは、温泉についても不慣れに違いない。
茅咲はそっと彼女に近づいて、桃萌の独り言に耳を澄ました。
「強酸性泉かぁ……」と、桃萌は教科書を見ながら呟いている。「入ったことないけど、どんな感じのお湯なんですかねぇ」
(……ふむ)
茅咲の脳内データベースが躍動を始める。強酸性泉。pH2.0未満のお湯のみが名乗る。強力な殺菌作用があり長湯には向かない。強酸性で有名な温泉地といえば――。
桃萌の独り言は続く。
「試しに浸かりに行ってみやすかね。ええっと、おすすめの温泉地は……」
(――今ですわ!)
茅咲はガバッと立ち上がった――反対側に、もう一つの影があることに気付かずに。
「――それなら、玉川温泉がおすすめですわ!」
「――それなら、草津温泉がおすすめよ!」
「へっ?」
桃萌は目を丸くして茅咲に目をやり――続いて、反対側の少女にも目をやった。
同じタイミングに、同じ目的で、もうひとりの温泉むすめがアドバイスしたのだ。それも、よりによって茅咲にとって因縁の相手が。
「……あ、芦原小梅さん……」
芦原小梅。茅咲と同じく温泉オタクのむすめである。
ふたりのアドバイスが対立するのはこれが初めてのことではない。茅咲はすぐに気持ちを切り替えて胸の下で腕を組むと、不敵な笑顔を浮かべて小梅と対峙した。
「あらあら、芦原小梅さん……強酸性の湯といえば、やはり日本一の酸性を誇る玉川温泉を紹介するのが当然ではなくて?」
「フッ……。そうとも限らないわ、赤倉茅咲さん。強酸性のお湯は入浴時に注意することが多いから、不慣れな子にはまず有名どころの草津温泉を推薦するべきよ」
小梅も負けじと言い返してくる。茅咲はむすっと眉をしかめ、「桃萌さん」と、小梅に先んじるように桃萌に声をかけた。
「秋田にある玉川温泉では、本場のあきたこまちが食べられますわ。新潟県のコシヒカリにも劣らずおいしいお米ですから、ぜひ食べてみてくださいな」
「は、はぁ……」
桃萌が目をぱちくりさせる。すかさず小梅が反論してきた。
「そのコシヒカリは私の地元、福井県で開発された品種なんだけど。というか、桃萌さんはうどんが好物だから、お米を勧めても困らせるだけよ」
「え、ええと……。なんでももの好物を知ってるんですかね? 初対面なのに……」
「うふふ、ちょっとね。私は赤倉茅咲さんとは違って温泉むすめの情報も集めてるから。桃萌さん、草津にある足湯カフェでは群馬県名物の『おっきりこみ』が食べられるわよ」
「! それはうどんですかい!?」
不審がっていた桃萌が小梅の言葉にぱあっと目を輝かせた。茅咲は自分の劣勢を悟る。
「くっ……! 桃萌さん、おっきりこみはうどんではありませんわ!」
「そうね。でも、うどん好きなら食べてみて損はない一品よ」
「それは……食べてみたいでさぁ!」
茅咲の最後の抵抗も虚しく、桃萌の一言で雌雄は決した。今回の温泉指南バトルは小梅に軍配が上がったのだ。
「うふふ」と、小梅が得意げに笑う。「これで私の79勝103分78敗ね、赤倉茅咲さん」
「……。お、お見事、ですわ……!」
悔しい気持ちを押し殺して、茅咲は小梅に頭を垂れた。
温泉指南の本質は、お客さまによりよい温泉体験を提供すること。それに成功した相手にはライバルであっても敬意を払う。それが温泉マスターとしての茅咲の矜持だ。
(でも! でも!! 悔しいですわ~~~~っ!!!)
もっとも、彼女の目尻には小粒の涙が浮かんでいるのだが。
「それじゃ、桃萌さん。草津に行きましょう」
小梅が桃萌の手を取る。茅咲が顔を上げて二人を見送ろうと涙を拭っていると――ふと桃萌が茅咲の方に振り返った。
「あれっ、赤倉茅咲パイセン……でしたっけ? 一緒に来てくれないんですかい?」
「は?」
「お二方とも温泉に詳しいご様子! ぜひももにご指導ご鞭撻をお願いしまさぁ!」
虚を突かれた茅咲は目を丸くして、同じく驚いている小梅を見る。勝ち負けなどまるで気にしていない様子の桃萌の言葉を聞いて、ふたりはどこか拍子抜けしてしまった。
(芦原小梅さんと一緒に温泉に入るのは……何かと面倒くさそうですわね)
面倒くさそうだが――まあ、たまにはいいかもしれない。
小梅が肩をすくめたのを見て、茅咲も苦笑して肩をすくめ返し、桃萌に言った。
「それでは、ご一緒させていただきますわ!」
(おわり)
著:佐藤寿昭