温泉むすめ伝「野沢菜々の章」
春。桜が舞い散り、降り注ぐ日差しには暖かみが増しだした、そんな長閑なある日のこと。
「温泉まんじゅうはつぶあんだよ!」「そーだそーだ!」
「何言ってるの、こしあんが一番でしょ!?」「そのとーり!」
穏やかな気風で知られる『温泉むすめ師範学校』だが、そこはそれ。人と人(神と神)が集まれば、否が応にも争いが起こってしまうのは世の常である。
そんな時、必ずと言っていいほど仲裁に現れる少女がここにひとり。
ポニーテールに結わいた長く美しい髪をたなびかせ、颯爽とケンカの場へ駆けつける小柄な少女――彼女の名前は野沢菜々。
「待て待てー! 我らは『湯仲間』! むやみに ケンカするものではないといつも言っておるじゃろうが~!」
長野県は野沢温泉、友と仲間を何よりも大切にする小さな体に大きな優しさを秘めた温泉むすめだ。
♨ ♨ ♨
「――まさか温泉まんじゅうの中身についてケンカとはのう。あの場はつぶあん派とこしあん派だけだったからまだ何とかなったものの、温泉まんじゅうの中身は無限大じゃからな。再戦が起こらぬよう気を配らねば」
昼休み。師範学校校舎の外れにある大樹の下で、菜々は二種類の温泉まんじゅうをほおばっていた。もちろん中身はつぶあんとこしあんである。先ほどのケンカをなんとか収めた菜々は、お礼として両陣営から大量の温泉まんじゅうをもらったのだ。
渋めに淹れてきた水筒のほうじ茶と共に食す、甘さ控えめの温泉まんじゅうは味わい深い。たまに間に挟む自家製の野沢菜漬けの塩辛さもいい仕事をしてくれる。
これは無限に食べられると思いながらひょいひょいと口に運んでいた菜々だったが、大量にもらったまんじゅうはいかんせん減る気配を見せない。
「うっぷ、さすがにひとりで食べ切れる量ではないのじゃ……のう、そなたも食べんか?」
菜々は、隣ですやすやと寝息を立てている少女に声をかけた。
「んー……あと五分……」
「答えになっておらんのじゃ……そろそろ起きろ、ほむら」
木陰で気持ちよさそうに微睡んでいる少女――阿蘇ほむらの頬をぺしぺしと叩いて、菜々は呆れたように言った。彼女は昼休みの時間を丸々昼寝に充てたらしく、長いツインテールがぼさぼさに乱れている。
「ほら、ちゃんと食べんと午後の授業がつらいぞ?」
そう言われて目を開けたほむらはようやく身を起こすと、ひとつ大あくびをした。そして、
「じゃあ食べさせて~……」
と、後ろから菜々を優しく抱きしめた。
「子どもではなかろうに……。だいたい抱きつかれては食べさせるなんてムリなのじゃ」
「菜々はあったかいね~……ぎゅー……」
「はぁ……。まったく、仕様のないヤツじゃのう」
ため息をついて呟く菜々だったが、その顔には言葉とは裏腹に微笑が浮かんでいる。
こうしてほむらに抱かれてぼんやりとするのは、菜々にとっても掛けがえのない時間だった。お互いのぬくもりを感じながら、ただ言葉もなく木漏れ日の中で微睡む時間――これを平和と言うのだろう。
そんなふうにふたりでぼんやりしていると、葉擦れの隙間を縫うようにして、校舎の方からなにやら軽快な音楽が聞こえてきた。
ああこれは、と菜々は音の方を見る。最近、温泉むすめ達の間で話題になっている、あの一大イベント――
「『温泉むすめ日本一決定戦』に向けて、みんな頑張ってるねー……。これはダンス練習、かなぁ」
頭上からほむらの声がする。どうやら彼女もその音に興味を惹かれていたらしい。
「ふむ……目標に向けて訓練する、それ自体は素晴らしいのじゃが」
菜々は少し唇を尖らせた。温泉むすめ日本一決定戦――その名を聞くと、彼女は不安な気持ちになるのだ。
温泉むすめ日本一決定戦とは、天上神であり温泉むすめ師範学校校長も務めるスクナヒコが開催を宣言した、その名の通りの『日本一の温泉むすめ』を決める戦いである。
その勝負の内容は「アイドル」。菜々にとってあまり馴染みのない言葉であり、まだピンときていないのだが、問題なのはそこではない。
菜々に不安をよぎらせるのは、温泉むすめ日本一決定戦というその枠組み自体にあった。
頭の上に顎を乗せてきたほむらに訊いてみる。
「のう、ほむら。おぬしはどう思う? 温泉むすめ日本一決定戦について」
「ん~、わたしは寝てる方が好きだなー……。まあ、ちょーっとだけ楽しそうだとは思うけど~……」
「楽しそう、か。わしはどうにも心配なんじゃがのー」
「なにがー……?」
「日本一を決めるということは争うということじゃろ? わしは争いを好かん。和が乱れるからの」
「ふーん……わたしにはよくわかんないけど、気にしすぎなような……そうでないような……Zzz……」
「こら寝るな!」
「……んぅ。菜々、あったかいから、つい……」
「まったく、おぬしは気を抜くとすぐ眠りこけてしまうからに……。とにかく、わしら温泉むすめは『湯仲間』。みな姉妹のようなものじゃろう。争うのではなく、共に語らい協力し合う事こそ正道というもの」
「そうだねー……確かにねー……」
そうのんびりと答えるほむらの声に予鈴の音が重なった。安らぎの時もそろそろお開きだ。
「さて、教室へ戻るとするか。ほれ、ほむら。手を放すのじゃ」
「んー……もう少し」と、ほむらは幼子の様に首を振る。彼女の下顎が菜々の髪をぐりぐりと弄くった。
「イヤイヤではないのじゃ。次の授業に間に合わなくなってしまうじゃろ」
「じゃー勝負しようよー……、菜々」
「勝負!?」
「うん……。もう少しここにいるかどうかをかけて、勝負……」
「ほむら。おぬしはさっきまでのわしの話ちゃんと聞いておったか?」
ほむらは言葉を返さない。代わりに、彼女は菜々の胴に回した手にぎゅっと力をめた。
「だー! 締めつけるでない! あとわしの頭に顎を乗せるな! 髪が乱れるじゃろー!!」
普段ののんびりした様子を見ていると忘れがちだが、ほむらは結構力が強い。本人曰く、日々枕を抱いて寝ているので『まくら抱き筋』なるものが発達しているそうだが、その被害を一番被っているのはおそらく菜々である。
「それじゃ、勝負スタートね……」
そう言って、ほむらはゆったりした手つきで菜々のポニーテールを結んでいるリボンを解いた。
「お、おい。なんじゃ?」
どうやら、もう勝負が始まっているらしい。ルールも分からないまま進む戦いに菜々が戸惑っていると、ほむらが気の抜けた表情で笑った。
「ほら、菜々も頑張って……。髪型とりかえっこ勝負だよー」
「な、なんじゃあ、それは……?」
「わたしの髪型も菜々の髪型も崩れちゃったから、お互いに相手の髪型を整えなおす勝負だよー……。わたしは菜々をツインテールにしてあげるから、菜々はわたしをポニーテールにしてね。はやく結びなおせた方の勝ちー……」
「え、ええーっ……」
あまりに間の抜けた――というより、ほむらが自分の髪をまとめ直すのが面倒だったのだろう――可愛らしい勝負の内容に、菜々は笑いがこみ上げてきた。
「ぷっ――あははっ。いや、なんともほむららしい内容じゃな。おぬしにかかれば、勝負ものんびりしたものじゃ」
「なんで笑うの~? わたし真剣だよー……」
「そうかそうか、ならば、わしも負けてはいられん――」
そう言いかけて、菜々の口から「あ」と短い驚きの声が漏れた。
「どうしたの、菜々……?」
「……なんでもない。よし、やるかの! 授業まで時間もあまりないしな」
それは、ごく自然に「勝負」をしようとしている自分への驚きだった。
争いというものは己の性に合わない。けれど、少し杓子定規に考えすぎていたかもしれない。
勝ち負けがある以上、自分たちがやっているこの「勝負」も確かに争いで――それなのに、のんびりとした手つきで菜々の髪をツインテールに結び直そうとしている友人の姿に微笑みがあふれてくるのはなぜだろう。
(ふふ。わしもまだまだ未熟者じゃな……)
ほむらの長い髪を手早くまとめ終えた菜々は、ほむらに笑いかけた。
「わしの勝ちじゃ。さあ教室へ戻ろうか、ほむら」
野沢菜々が『温泉むすめ日本一決定戦』に出場する決意を固めたのは数日後のこと。
その優しさは、仲間同士の「勝負」のなかで遺憾なく発揮されているのだった。
Fin.
written by Ryo Yamazaki