温泉むすめ伝「洞川蓮の章」
年の瀬は知らずのうちに過ぎ去っていき、かじかむほどの風と共にやってきた冬休み明け。
しかし温泉むすめ師範学校、その中等部廊下には、夏のそれにも負けぬ猛烈な熱気が冬の寒さを吹き飛ばす勢いで巻き起こっていた。
「よよよようこそ中等部へ!」「お菓子! 誰かお菓子持ってきてぇぇ!!」「よければお茶ご一緒しませんか!?!?」
興奮気味に声を上げる少女、少女、少女の嵐。その中心に佇むのは師範学校のプリンスと名高い洞川蓮である。
壁に背をもたせかけた蓮は、艶やかな髪を掻き上げるとなだめるように少女たちへ言った。
「みんな落ち着いて。僕はどこへも行かないよ」
微笑と共に零れ落ちた甘い言葉は、さながら糖度120%の揮発性燃料である。
「ぎゃ~~~! 蓮さまぁぁぁん!!」
更に燃え上がる少女たち。と、一団の中から感情の爆発を抑えられなかったらしきひとりの少女が躍り出ると、蓮に小奇麗な紙袋を押し付ける。
「あの! これ、蓮さまにも読んでほしくて!!」
「ありがとう。君の貸してくれる本、いつも楽しみにしてるんだ」と、蓮は紙袋を受け取り、その黄金の微笑みを差し出し主の少女へ向ける。「中、見てもいいかな?」
「うぎぃ……! どろ゛げじゃい゛ま゛じゅ~~~」
認知された上に褒められて、感情の整理が追いつかないのか、少女は奇声をあげつつ頷いた。
袋を開けると中に入っていたのは数冊の漫画であった。蓮は普段漫画を読まない。だが、これほど熱心な様子で勧めてくれるのだからきっと面白いに違いないと一冊を手に取った。取ったのだが……。
「うっ……!」その漫画の『表紙』を目にした瞬間、蓮は激しい眩暈に襲われた。「ううっ……! くうううっ……! くうううりすたるがいざっっっ!!」
「………………ん?」
謎の悲鳴の出所が蓮だとは思わず、少女たちはきょろきょろ辺りを見回した。
「これは……くうッ……!!!」
次第に増していく苦しさ。少女たちの手前、なんとか平静を保とうとする蓮だったが、目の端に『表紙』が入る度、嫌でも動悸は激しくなっていく。
「はいはい! ちょっとごめんね~!」
ふと声が聞こえてきたかと思うと、少女たちの合間を縫って現れたのは十津川飛香であった。
「あ……飛香……!」
「王子はちょっとお疲れなんで、今日のアフター5は撤収させて頂きます! はい、そこどいて~」
突然の闖入者に目を点にした少女たちはただただ頷くのみであった。
「それではみなさんご機嫌よう! ばいちゃ~!」
飛香に手を引かれ、蓮はよろめきつつその場を後にする。
朦朧とした意識の中で握った飛香の手は、いつも通りとても柔らかかった。
畳の上に仰向けになった蓮は、制服の襟元を緩めると軽く息をついた。
「ふぅ……さすが飛香だね、いつも最高のタイミングで来てくれるなぁ……」
「あんたの周りは人だかりができるからすぐわかるの。ってゆーか、なんで中等部に来てたのよ」
「飛香に会いたかったからだよ」
「はいはい。あたしが欲しいのはもっとオシャンティーな一言なの。キザなセリフじゃないわ」
難しいオーダーだな、と苦笑しながら、蓮は目を閉じて耳を澄ませた。
聞こえてくるのは、そばを流れる山上川のせせらぎである。ここは洞川温泉のとある宿――蓮の家だ。
洞川温泉は霊峰・大峰山の登山口にある古くから栄えた温泉地で、山々から湧きだす豊富な天然水が名水百選にも選ばれる水の町である。耳慣れた水音に身をゆだねていると、僅かに残っていた頭痛が段々と収まっていく。
ひとしきり落ち着いたところで蓮が目を開けると、飛香が上から覗き込むようにして見ていた。
「調子崩すくらいなら、ああいうの苦手だっていいかげん言っちゃえば?」
「別に苦手じゃ――」
蓮の眼前にいきなり先程の漫画が突き出された。その表紙の『キスシーン』が目に入ると、途端に息苦しくなる。
「えびあんっっ!!」
「はいウソ~」漫画がどけられ、飛香が再び覗き込んでくる。「…………で、それは悲鳴でいいのよね?」
「はぁ……はぁ……悲鳴だよ……悲鳴以外の何に聞こえるっていうのさ……」
そう、蓮はなぜか艶っぽいものが大の苦手であった。テレビドラマで濃厚なあれやこれやなんてもの見てしまった日には失神ものである。原因を考えてみてもとんと思いつかず、蓮生来の悩みの種なのであった。
「ふぅーー…………もう、本当にいじわるだな、飛香は」
深く息を吐いて呼吸を整えると、蓮は体を起こした。
「蓮にはこれくらいがちょうどいいんです~」
ちゃかすようなことを言いながら飛香が漫画を紙袋に入れる。子どもの頃からの付き合いである彼女は蓮の弱点をよく知っていて、なんだかんだと言いながらいつもフォローしてくれていた。
「冗談じゃなくてさ、はっきり言わないとあの子たちだってわかんないよ。そういうのええかっこC~って言うの」
「手厳しいね。さすが飛香は都会的な女の子だ」
「でしょ? シャレオツなあたしは言い難いこともびしっと――って、だからそういう褒め言葉はいらないっての!」
蓮は笑った。蓮にとって飛香は頼りになる年下の友人であると同時に、自分と自然体で付き合ってくれる数少ない相手であった。飛香と過ごす時間は他の少女たちと過ごす時間とは違う、掛け替えのない時間だ。
「でも彼女たちに悪気はないんだよ。僕が不甲斐ないだけで」
もちろん蓮は自分に好意を持ってくれる少女たちのことを疎ましく思っているわけではない。むしろ彼女たちのことも大好きだ。笑ってもらいたいからこそ、その気持ちにとことん応えたいと思っている。
少女たちに対するこの奉仕の心もいつの間にか身についていたのだが、やはり原因はとんとわからない。
蓮は漫画の入った紙袋を手元に引き寄せ、言った。
「これを勧めてくれたのはね、前にもすごく素敵な本を教えてくれた子なんだ。彼女はきっと温泉むすめ一のブックコンシェルジュだよ」
「ほら、すーぐ褒める。そんなんだから女子たちを蓮さまゾッコン大好き~! にさせちゃうんでしょ」
「別に気を持たせてるつもりはないんだけど……」
「蓮はね、褒め上手すぎるの。その上マメだし優しいし女子をお姫様あつかいしすぎ。わかる?」
蓮が意味を捉えかねていると、飛香はやれやれと言わんばかりに首を振った。
「なんでこんなふうに育ったかな~。ま、これに懲りたらもうちょっと自分の行いを反省するように! 以上!」
飛香が立ち上がり、背を向けた。追うように蓮も立ち上がるとドアノブにかけた飛香の手に己の手を重ねた。
「もう帰るの?」
「だから! そういう所なんだってば!」
蓮としてはあくまでも自然な振る舞いだったのだが、なぜか飛香は険しい顔で睨みつけてくる。
「ごめん……?」
「わかってないのに謝るな! ったくも~」
ぷりぷり怒る飛香をかわいいなと思った。だが言えばまた叱られそうなので、あえて言わずにおく。
「飛香、この間お豆腐料理食べたいって言ってたよね? ご近所さんからいいお豆腐を頂いてね……実は、今日中等部へ行ったのは飛香と一緒に食べようと思ったからなんだよ」
「え、よく覚えてたね」
「飛香の言ったこと忘れるわけないだろ?」
「だから~~~~~……」うんざりしたふうな飛香だが、溜息を吐くと態度を一転させた。「まぁいいわ。豆腐でお礼なんて、あんたにしてはオシャンティーじゃない。あたしみたいな都会っ子は健康に気を遣うからね!」
そのあからさまな変わりようが可笑しくて、愛らしい。
「何食べたい?」
蓮はスマホで料理サイトを開き、豆腐料理のページを見せた。笑顔で覗き込む飛香だが見る間に顔をしかめていく。
「一つしかメニュー乗ってないんですけど!? 湯豆腐オンリーなの!!?」
画面には豆腐料理のトップページが表示されていて、そこには湯豆腐のレシピが映っていた。どうやら飛香はこのトップページがメニュー表の全てだと思ったらしい。
「ほら、見ててごらん」
蓮はスマホを操作し、次々と豆腐料理を表示させていった。再び目を輝かせて画面を見つめだした飛香だが、ハッとすると矢継ぎ早に言葉を並べ立てる。
「もちろん知ってたわよ! 蓮ができるか確かめただけなんだからね!?」
自称都会っ子、飛香は大の機械音痴である。それもちょっとしたスマホの操作がわからないレベルで。
「そうだね。僕がスマホの扱いに詳しくなれたのは飛香のおかげだよ」
蓮は笑いをかみ殺しながらスクロールを続けた。昔から一緒にいる時は、デジタル家電を初め機械関連の操作はほとんどが蓮の役目である。ふたりして苦手なことを補い合っているのだと思うと、それもまた面白かった。
メニューが決まると蓮は立ち上がった。
「よし、腕によりをかけて作ってくるから少し待っててね」
「頼むわよ! シャレオツ~なご飯、期待してるからね!」
飛香の屈託のなさに胸が温かくなった蓮は、最高のおもてなしをしようと心に誓い部屋を出て行った。
「ほんとあの王子様は世話が焼けるんだから。振り回される子たちも大変よね~」
蓮が出て行った部屋で、飛香はひとりため息を吐く。優しくて、マメで、褒め上手。あんな風に接されたら誰だっていい気持になってしまうし、当の本人がよくわかってないのが尚のこと厄介である。
「蓮が王子にさえなってなければ、女の子たちももうちょっと平和な学校生活を送れただろうに……ほんと誰のせいであんなふうになったんだか!」
ひとり蓮について取り留めなく考えを巡らせていると、部屋にぽつねんとしてるのが妙に身に染みてくる。
(しばらく一人かぁ。暇だしなんか音楽でも聞きたいけど……蓮の部屋にCDプレーヤーあればな~)
いくら蓮の部屋でも、さすがに好き勝手娯楽を探すのは憚られた。
(なんか喉も乾いてきたかも。せっかく洞川にいるんだし、美味しい天然水をぐびっといきたいわね……)
暇を持て余した飛香が床を転がり始めると同時、いきなりお盆を持った蓮が入って来た。
「お待たせ」
「もうできたの!?」
「違うよ。お水。喉乾いたかなって思って。もちろん飛香が大好きなごろごろ水だよ」
「あー、ちょうどいいタイミング。いただきまーす」
洞川の天然水の中でも、ごろごろ水は特に飛香のお気に入りである。
喉を鳴らしてごろごろ水を堪能していると、今度はどこからともなく音楽が聞こえてきた。見ると、蓮がスマホをいじっている。
「ああ、ひとりで退屈かなって思ってさ。音楽でもどうかなって」
「ん、よくわかってるじゃん。ありがとね~」
選曲も完璧に飛香の今の気分に合っている。音色に耳を傾けながら飛香は上機嫌でごろごろ水を飲みほした。
(蓮といるとほんと楽なんだよね~。何にも言わなくても全部やってくれるし。気分はお姫様――ん?)
ふと、飛香は気づく。
(蓮って子供のころからいつもあたしの傍にいた気がするけど……何でか毎回世話を焼きたがってたような……)
見ると蓮は爽やかな笑顔を湛えながら、手際よくコップを片付けている。
「あぁ、よさそうなCDプレイヤーこの間見つけたんだよね。飛香が次に来るまでに買っておくよ」
(最初はとんちんかんなことか結構してたけど、色々言ってるうちにいつの間にかしてほしいこと全部完璧に当てるようなって、それで……)
飛香は愕然とした。
(もしかして、この天然王子を作ったのはあたし!?)
飛香が心内で悶えていると早速その様子の変化を察知したのか、蓮が気づかわしげに覗き込んでくる。
「……飛香、もしかして具合悪くなってきた?」
具合が悪くなるのも当たり前である。世紀の王子、洞川蓮を生み出しあまねく少女たちの日々を無駄に騒々しいものにしたのはこのあたし、十津川飛香だったのだから。ああ、己の生んだ罪のなんたる恐ろしさ!
そんな飛香の気持ちを知ってか知らずか、蓮は聞くものを慰撫してやまない麗しの声音で甘く囁いた。
「それとも悩み事かな? だったら話してごらん。僕が全部受け止めてみせるから」
「みんな! ごめーーーーん!!」
飛香は傍に置いてあった紙袋を手に取ると、中から漫画を取り出して蓮に突き付けた。
「うぼっ……!」
珍妙な悲鳴を上げる蓮を前に、飛香は天を仰いだ。己が罪から目を反らすにはこの王子らしからぬ声を上げさせる以外、彼女には思いつかなかったのだ。
「うぼぼぉ……!! うぼぉぉぉるゔぃ~~~~~っく!!!」
Fin.
written by Ryo Yamazaki