温泉むすめ伝「小浜あまねの章」
温泉むすめ師範学校の部活は、基本的に人数不足である。
「どひゃーーーーっ! もう始まってる! 間に合え間に合え!」
夏の訪れを予感させる空がまぶしい六月下旬。温泉むすめ師範学校「チア部」の小浜あまねは、チアリーダーの衣装を身につけたまま都内の歩道を爆走していた。
チア部の部員は彼女の他にもいる。いるのだが、インターハイの予選が重なるこの時期をまかなえるほどの人数はいない。今日も、ある部員はテニス部の応援に行き、またある部員は陸上部の応援に行き、そしてあまねは午前中にサッカー部の応援をしたその足で、同級生の平戸基恵が参加する水泳部の大会の会場へと向かっていた。――ひとりで。
「だいたい……はぁ、ふぅ……うちの生徒は帰宅部多すぎ! そりゃ地元の手伝いが優先だけど! ぜー、はー! 今しかできないこと、もっと楽しめばいいのに!」
足が止まらないように口を動かし続けながら、賑やかな声が響く市民プールの応援席に駆け込む。競技中とは思えない弛緩した雰囲気に嫌な予感を覚えてプールに目を下ろすと――やはり、すでに結果が出たあとのようだった。
「基恵っ!!」
プールから上がってくる友人は不満げに顔をしかめている。電光掲示板に表示された順位は十人中、六位。決勝進出ならず、ということだろう。
一瞬、間に合わなかった申し訳なさが脳裏をよぎるが、あまねはすぐにそれを振り払った。今、彼女にかけるべき言葉は「遅れてごめん」ではない。
「基恵ーっ! ナイスファイトー!! 次いこ、次っ!」
水泳の東京都予選は二日にわたって行われるため、まだ彼女の出番は残っている。両手のボンボンをふりふり、ありったけの笑顔を浮かべて、あまねは基恵を励ました。
基恵の方もあまねに気付き、手を振って声援に応えてくれる。自信家の彼女にしては手の振り方が控えめなのは悔しさのあらわれだろうか。そのまま彼女がプールサイドに消えるまでボンボンを振り続けていると、「一人で応援かい。えらいねえ」と声がかかった。
「ちょっとぉ。『えらいねえ』だなんて失礼でしょ。その子のバッグの校章、温泉むすめ師範学校のだよ。温むすさま!」
「あれ、そうかね。すまんすまん、わはははは!」
話しかけてきたのは近くの客席エリアを占めるご老人たちの一団である。誰かの父兄というわけでもなさそうで、暇潰しに来たご近所さんの寄り合いかな、とあまねは思った。
「お嬢さん、どこの温むすさまなの?」
「長崎の小浜温泉でーす♪」
お決まりの質問である。あまねはにこやかに答えた。
雑談のネタに飢えていたのか、ご老人たちは「長崎か。俺行ったことないな」「いいとこだよ、ねえ?」などとそれぞれにリアクションを返してくれる。すると、一団の後ろの方にいた痩せぎすのお爺さんが「小浜、行ったことあるよ」と身を乗り出した。
「あれだよ。源泉が熱っついんだ。確か100℃超えてらぁな?」
「正解っ!」と、あまねは両腕で〇を作った。「なんと! 105℃あるんですよ~!」
「そうそう。んで、足湯もそれにあやかって105メートルあんだよ」
へえ、と一団から感嘆の声が漏れる。期せずして地元のPRに成功し、あまねは気をよくしていたが――一団の中の誰かが放った一言が、彼女に冷や水をぶっかけた。
「熱っつい応援にも納得だよ。熱っつい源泉から産まれたからなんだねえ」
何気ない一言だった。恐らく、あまねを褒めるための。
「あー……」
だが、あまねは心の中で頭を抱えた。どう答えるのが正解か、これ以上に悩ましい一言はない。彼女は呻きながら視線を宙に泳がせ、やがて――。
♨ ♨ ♨
「――ええと、その場しのぎの笑顔を浮かべて逃げてきちゃったんですねぇ……」
「うう、いのりん……。またしても罪を犯したあたしをお許しください……」
「い、いえ。赦すのはわたしではないのでぇ……」
その日の夜。あまねは親友の雲仙伊乃里を呼びつけ、二人きりの懺悔をしていた。
場所は、小浜温泉の住宅街にぽつんとある炭酸泉の湧出地。この源泉は小浜に湧く唯一の冷泉で、泉温は20℃台後半しかない。高温で有名な小浜の中では異質ともいえるスポットであり、そして――小浜あまねが、その生を授かった源泉でもあった。
そう。彼女は「有名な方の」「熱っつい」源泉の生まれではないのである。
「今度こそ! 今度こそ本当のこと言おうと思ってたのに! 思ってたのにぃ~~!!」
「アッちゃん……」
「でもさぁ、無理じゃん! せっかく小浜の温泉にかこつけて褒めてくれたのに! それこそ冷泉ぶっかけるツッコミなんてできないじゃん! うわ~ん!!」
「な、泣かないでくださいぃ……! アッちゃんが泣くとわたしも……わたしも……! うっ……」
「「うわ~~~~ん!!」」
ひっしと抱き合って、あまねと伊乃里は泣いた。
絵面こそ大ごとだが毎度のことである。他人を応援することが好きで、競技中の本人以上に熱くなることも珍しくない――そんな「熱い」あまねが今日のような誤解を受けるのも、そのたびに誤解を訂正しきれず、伊乃里を呼び出して懺悔するのも。
「うう、ぐすっ……。温泉むすめは必ずしもその街で最も有名な源泉から産まれるわけではない……。アッちゃん、昔から生まれのことを気にしてましたもんねぇ、ひっく……」
「あ、その点についてはもう大丈夫だけど」
「ぐすぐす……それも主の思し召し。きっと何か理由があって……へっ?」
そして、本人以上に涙を流す伊乃里の姿を見たあまねが冷静になり、一足先に泣き止むのも毎度のことであった。
「あたしが気にしてるのはさ、『今回も誤魔化しちゃったなー』ってことだけだよ。生まれのコンプレックスはもう解消済み」
「そ、そうだったんですかぁ!?」
「いのりんのおかげだよー? 覚えてないの?」
「わたしの? ええと、ええー……?」
まるで心当たりがなさそうに、伊乃里の視線が宙を泳ぐ。その無垢な目尻に残った涙の跡を指先で拭ってやりながら、あまねは「ところでさ」と話を変えた。
「もののついでに、いのりんにお願いがあるんだよね♪」
♨ ♨ ♨
翌日の市民プール。客席のチアリーダーは、二人に増えていた。
「フレー、フレー! も・と・え! がんばれがんばれも・と・え! ハイ!」
「ふりぇー……ふりぇー……もとえ、しゃん……。あうぅ……!」
「いのりん、もっともっと! いい声してるんだから恥ずかしがらないで! いーのりんもがーんばれー♪ がーんばれー、がーんばれー♪」
「ひぃっ!? が、頑張りましゅから目立つことしないでくださいぃ!!」
元気よくボンボンと脚を上げ下げしているのがあまね、恥ずかしそうに縮こまりながら控えめにボンボンを揺らしているのが伊乃里である。
眼下では、選手たちが激しい水しぶきをあげて先頭を相争っている。
200mバタフライ。基恵の得意とする距離だ。いま行われているのは予選で、午後の決勝に進出するためには、何度かに分けて泳ぐ「全出場選手の」タイムの上位十名に入らなければならない。
つまり、気にすべきはタイムであり、現在のコース上での順位ではないのだが――そんなことはあまねには関係なかった。
「あとちょっと! 行けぇーーーーっ、基恵ーーーーっ!」
「バタフライ」の名のとおり、蝶が羽ばたくように泳ぐ基恵に向かって、あまねはあらん限りの声を振り絞る。すらりと伸びた両脚が水を蹴り、水中の全身がリズミカルに波打ち、躍り出た両腕が大きく水を掻くと、彼女の華奢な体が滑るように前へ、前へと加速する。
基恵は二年生だが、他の出場選手たちは最上級生ばかり。それでも彼女は先頭集団に食らいつき、食らいついていき、ゴールに手をつくと――「MOTOE HIRADO」という名前が、三位で電光掲示板に表示された。
「いよっしゃぁーーーーっ!!」
「うぅ……! すごいです、基恵しゃ……ぷきゃぁ!?」
思わず、あまねは伊乃里に抱き着いた。
「やったやった! いのりん、基恵がやったよ! 三位って、優勝だよ優勝!!」
「優勝!? 三位なのに!?」
確かに、基恵のタイムが決勝進出に十分なのかは分からない。分からないが、彼女が全力を出し切ったということは、泳ぎからも、ゴーグルを上げた時の眼差しからも分かった。
これ以上ない結果――つまり、優勝である。
「もとえ、もとえ~~っ! あっほら、手ぇ振ってる! しかも昨日より偉そう~わはははははは! いのりん、基恵んとこ行こ!」
「ふえぇっ!? 昨日の話されても知らな……アッちゃん!? 待ってくださぁい!」
応援した相手が優勝したならば、祝福を伝えなければならない。
抱き着いた伊乃里をブンブン揺すりながら喋り倒し、かと思うとぱっと離れて、あまねは選手控室へと駆け出した。
♨ ♨ ♨
「ええ♪ 優勝みたいなものね♪」
「えぇー……。基恵さんまでぇ……」
平戸基恵は、すっかり本調子を取り戻していた。
最終順位はまだ分からない。分からないのだが、「ふふん」と得意げに鼻を鳴らす基恵は完全に何かを成し遂げた風である。
「自分でも今日の泳ぎはキレてるって分かったわ。何より美しかった……。この私の美麗なバタフライを見れたのだから、光栄に思いなさい♪」
「確かに……! じゃ、光栄なあたしたちも優勝したんだね、いのりん!」
「はぁい……。もうそれでいいですぅ……」
競泳の採点基準に「美」はないのだが、基恵にとっては大事なことらしい。伊乃里は全てを諦めたように弱々しく頷いた。
「それでは、優勝した基恵にはこの花をプレゼント!」
全員の賛同が得られたところで、あまねは自分のポーチをまさぐり、ラッパのような形をした、鮮やかな紫の花を差し出した。
世界三大花木とも呼ばれ、六月のこの時期、小浜温泉に咲き乱れる風物詩――
「ジャカランダ、でーす♪」
「へえ……。綺麗な花ね」
「花言葉は『栄光』『名誉』だから、今の基恵にぴったりだよ!」
「あら、気が利くわね」と微笑み、基恵はうやうやしく花を受け取った。房になって咲くジャカランダだが、一つの花となると存外にかわいらしい。
「け・れ・ど♪」
片手に乗せられたその花を――何を思ったか、今度は基恵が、あまねに差し出した。
「あまね。その『栄光』は、元をたどれば貴方がもたらしてくれたものよ」
「へっ?」
「私が全力を出せたのは、貴方が応援してくれたから。昨日の私は孤独だったけれど……、貴方が駆けつけてくれて、今日も来てくれて。やれる気しかしなかったわ。
知ってる? 水の中でも、意外と声は聴こえるものよ」
「……」
「いいものね。たった一人でも、自分のことを応援してくれる人がいるって」
「……なるほど?」
自分のチア衣装の胸元に咲いたジャカランダを見て、あまねは目をぱちくりさせた。
いいことを言った自分に酔っているのか、基恵はお団子にしていた髪をほどき、上機嫌で水気をぬぐい始めた。あまねはそんな基恵をきょとんと眺め、再びジャカランダに目を落とし、それをつまみ上げると――「じゃ、はい」と、伊乃里にそれを差し出した。
「なぜ!?」
伊乃里が目を丸くする。これだけズバッとツッコむ彼女は珍しい。
「だって、あたしがチア始めたのはいのりんがきっかけだから」
「はひぇ!? そうなんですかぁ!?」
「フフッ……。私の栄光は、元をたどればあまねの応援がもたらしてくれたもの。そして、その応援は、元をたどれば伊乃里がもたらしてくれたもの――そういうことね?」
「そういうこと!」
あまねと基恵は頷き合った。
頷き合い、伊乃里に捧げて歌い始めた。Queenの、“We Are The Champions”を。
「えっ、えっ、えっ!? なんですかこれぇ! 話の流れに追いつけてないのわたしだけですかぁ!?」
選手でもないのに祝福されている伊乃里を、他校の水泳部員たちが怪しい目で見ている。その視線に射抜かれて縮こまる彼女を見ながら、あまねは思い出していた。
「どんなアッちゃんでも、わたしはアッちゃんががんばってるって知ってるよ」
(……あたしも分かる。たった一人でも、自分を応援してくれる人がいる心強さ)
かつて、二人が幼かったころ。
「熱い方の源泉から生まれた」と何度も何度も誤解され、決めつけられ、嫌になっていた自分に、伊乃里がかけてくれた一言。
(――だから、あたしも誰かを応援したいって思ったんだもん!)
わたわたと困惑する伊乃里の横顔で、なめらかな髪に挿された一輪の紫の花が静かに輝いていた。
Fin.
written by Toshiaki Sato