story おはなし

温泉むすめ伝「山の神皐月の章」

「皐月。どうしたの~? さっきから難しい顔をして~」

 

 突然声をかけられて、私――山の神皐月は我に返った。

 顔を上げると、玉こんにゃく串を持った巴お嬢様が心配そうに私を覗き込んでいる。

 温泉むすめ師範学校高等部、屋上。昼休みにここで食事をとる巴お嬢様に付き添うのが私の日課だ。

 

「難しい顔……そうでしたか?」

「そうよ~。すっっっごく眉間にシワが……こう、イーッ!って寄ってたわ~。

 そんなときは~! ほら、玉こんにゃくでも食べて一息つきなさいな♪」

 

 巴お嬢様はニコニコと笑って私の口元に玉こんにゃくを近付けてきた。出汁醤油の香りがふんわりと漂う。

 

「申し訳ございませんが、遠慮させていただきます。自分の弁当がありますので」

「いいから、いいから~。この玉こんにゃく、とっても美味しいのよ~」

 

 当然です。巴お嬢様のために私が丹精込めて作った弁当ですから。

 私は根負けして、玉こんにゃくを一つ頬張った。いつも穏やかで心優しい巴お嬢様だが、一度決めたことは譲らない一面も持っている。こんな時はお望み通りに動くのが一番だ。

 

「それで、何を考えていたの?」

「……実はここ数日、スクナヒコ様のお言葉が頭から離れないのです。

温泉むすめがアイドルとは、スクナヒコ様は何をお考えなのか……」

 

 全国の温泉地を盛り上げるため、温泉むすめがアイドル活動をする。

 スクナヒコ様のそのお言葉を聞いたとき、私は呆気にとられるほかなかった。私たち温泉むすめという存在と、雑誌やテレビの中の存在であるアイドルとが結びつかなかったのだ。

 

「日中は学業に精を出し、放課後は地元の温泉地でお勤めをする。それが我々温泉むすめの生活です。アイドル活動などに割く時間はないと思うのですが……って、巴お嬢様?」

 

 そんなことを真面目に語っていると、お嬢様はいつの間にやら屋上の床に両手をついて「うーん……」とうなっていた。何かを探しているようだ。

 

「あ~ん、皐月~っ。食べ終えた串を落として見失っちゃった~……」

「わ、私が探します! お膝が汚れますよ!」

 

 慌てて立ち上がり、お嬢様の代わりに落とした串を探す。本当に目の離せないお方だ。

 学業とお勤めに加え、私には巴お嬢様をお守りする責務もある。やはり自分にはアイドルをする時間など残されていないのだと、私は思いを新たにした。

 

「あっ、ありました! こんなところまで転がって……」

「うふふ、やんちゃな串だったのね~。ありがとう、皐月♪」

 

 床の模様の溝にはまっていた串を拾い巴お嬢様に差し出すと、お嬢様は何気なく言った。

 

「わたくしはね~、アイドルをやってみようと思っているのよ~」

「……はい!?」

 

 私は手渡しかけた串を落っことしてしまった。

 

「と、巴お嬢様……。今なんと!?」

「ア・イ・ド・ル。やりたいな~と思って」

「一大決心をそんなに軽々しく言わないでください! ど、どうしてそんなご決断を?」

「そうね~」と、お嬢様は笑った。「やっぱり、見たい景色があるからかしら~」

「見たい景色……ですか?」

「わたくしね、蔵王温泉をたくさんの人々で賑わう温泉にしたいの~♪」

「はあ……」

 

 私はため息をついた。温泉振興に結びつけられてしまうと反論のしようがない。

 お嬢様の執事として私は早々にアイドルのマネージャーを務める覚悟を決めた。そして、今後のスケジュールを確認すべく手帳をめくる。

 だが――次の瞬間、巴お嬢様の口から発せられたのは意外な一言だった。

 

「皐月。あなたにもあなたの……見たい景色があるのではないかしら~?」

 

♨     ♨     ♨

 

 その夜。山の神温泉に戻った私は、眠れずに旅館のロビーの床を磨いていた。

『あなたにもあなたの見たい景色がある』

 ――とは、どういうことだろう。私はあれから何度も「マネージャーとしてお支えしたい」と申し上げたけれど、巴お嬢様は微笑むばかりで首を縦に振ってはくれなかった。

 

「お嬢様の考えていることが分からないなんて……執事失格だ……」

 

 気分転換に役立つ拭き掃除も今日に限っては効果がない。私は諦めて雑巾を片付けると、夜風を浴びようと外に出た。

 ふと、旅館のそばを流れる豊沢川のせせらぎが聞こえてくる。

 その水流も、今日はどこかざわめいているようだった。

 

 豊沢川沿いには、「花巻南温泉峡」と呼ばれる七つの温泉がある。

 花巻市に近い方から、松倉温泉、志戸平温泉、渡り温泉、大沢温泉、山の神温泉、鉛温泉、新鉛温泉。そのほとんどが一軒宿を中心とした、ごく小規模の温泉地だ。

 

「……そして、高倉山温泉

 

 上流に目を向け、私はそこにかつてあった(・・・・・・)八つ目の温泉地と、そこでかつて暮らしていた(・・・・・・・・・)温泉むすめに思いを馳せる。

 

「流依さん、今ごろ何をしているだろうか……」

 

 高倉山温泉の温泉むすめ、高倉山流依。私にとって頼れる姉のような存在だった人。

 彼女は誰にでも優しく、何でも知っていた。私にヤマメの釣り方や効率のいい掃除方法を教えてくれたのも流依さんだった。

 だが――2012年の春、唯一の温泉施設が閉館し、高倉山温泉は休業状態となった。

 温泉地がなくなれば、温泉むすめが果たすべき役割もなくなる。流依さんは高倉山温泉を去り、来たるべき「代替わり」の日まで、遠く離れた東京で人々にまぎれて働いている。

 

「皐月――あとのことは宜しくね」

 

 高倉山温泉の閉館の日、流依さんが寂しそうに言った言葉が忘れられない。一軒宿中心の温泉地で構成されている花巻南温泉峡にとって、彼女の言葉は他人事ではなかった。

 流依さんがいなくなってしばらくの間、感情の整理が追いつかなかった私は「山の神温泉にもっとたくさんの人に来てもらって、また流依さんたちと花巻南温泉峡を盛り上げたい」などと、巴お嬢様にたびたび熱弁をふるった。巴お嬢様はその都度、私の話を聞いてくださり、最後にはニッコリと微笑んでこう仰ったものだ。

「うん、うん。それが、皐月の見たい景色なのね~」

 

「――あ」

 

 そうか。それが、私の見たい景色か――。

「ははっ……!」と、私は思わず笑い声を上げてしまった。

 巴お嬢様のことがわからないなんて、私は何を考えていたのか。単に私がお嬢様のお言葉を忘れていただけではないか。

 いつもそうだ。巴お嬢様は私が思うよりも広く大きく、ずっと遠い未来を見据えている。もしかしたら、こんなチャンスが来ることをあの頃から感付いていらしたのかもしれない。

 

「……始まっていたのですね。あの日から……」

 

♨     ♨     ♨

 

「お嬢様。一晩考えたのですが、私もアイドルをやってみようと思います。

 山の神温泉に多くの人を呼び、あわよくば――高倉山温泉を復活させるために」

 

 翌朝。私は登校中の道すがら巴お嬢様に報告した。お嬢様は驚くでもなく微笑んで頷く。

 

「うん、うん。とってもいいと思うわ~。お互いに頑張りましょうね~」

「では、お嬢様」と、私は少し意地悪な質問をすることにした。「アイドルとしてまず何をなすべきか、ご意見をお聞かせ願えますか?」

「えっ? えっと……え~っと…………あ~~ん!! 皐月、教えて~っ!!」

 

 可愛らしく戸惑うお嬢様を見て、私は少し安心する。遠くを見通すことはできるお嬢様でも、近くのこと――つまり身の周りのお世話はやはり私の役目のようだった。

 

「……これからも共に歩んでいきましょう。お嬢様」

「えっ? 皐月、なにか言った~?」

「ふふっ。秘密です!」

 

Fin.

written by Miyuki Kurosu

 

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