温泉むすめ伝「松島名月の章」
もしかして、この人なら理解ってくれるかもしれない――。
「いやー、堪能した堪能した! 初めての松島じゃったが、やはり日本三景の名は伊達じゃないのぉ!」
喫茶店の向かいに座る宮浜仁佳の表情を見て、松島名月は直感した。仁佳とはこの冬、『温泉むすめ師範学校』の高等部の進学前ガイダンスで知り合ったばかりの間柄だが、名月は彼女に不思議な縁を感じていた。
というのも、仁佳の暮らす宮浜温泉といえば『日本三景』の宮島に最寄りの温泉地である。同じく日本三景の松島で育った名月にとって、仁佳は初めて会った日から話が合う相手だった。
「特によかったのはアレじゃな。これだけの数の島があって、全部に名前がついとるってところじゃのぉ! どんな小さな島でも、名前にゃあ想いが籠もっとる。仁義じゃなぁ!」
ニッと犬歯を覗かせて笑う仁佳に、名月は「ですよね!」と力強く同意する。
初めての松島観光でその感想とは、やはり目の付け所が違う。直感が確信に変わった名月は、今だとばかりに自分のポーチから筆と短冊を取り出した。
「あの、仁佳さん。一句詠んでもいいですか?」
「ん? おお、俳句か!」
「はい。初めて松島に来てくれた人には、いつもこの句を差し上げているんです」
すらすらと筆を走らせて仁佳に短冊を差し出す。名月がそこにしたためたのは、こんな一句であった。
『牡蠣 くへば 笛が鳴るなり 瑞巌寺 』
「ほぉ、これは……!」と、仁佳が唸る。「牡蠣を食い、松島湾をめぐる遊覧船に乗って汽笛を聞き、瑞巌寺で歴史に生きた人々の息吹を感じる――今日の松島観光の足跡を俳句にしてくれたんじゃな!」
「ですです!」
二度頷いて、名月は期待のまなざしで仁佳を見つめた。肝心なのはここからである。
名月が今の句に籠めたのは今日の思い出だけではない。この俳句には「まだ行っていない、とっておきの観光スポット」が足りないのだ。
これまでそのことに気付いた者は一人もいない。それでも、仁佳なら理解ってくれるはずだ。
日本三景に造詣の深い、宮浜温泉の温泉むすめであれば――!
そんな名月の期待とは裏腹に、仁佳は残りのコーヒーを飲み干して、「よーし!」と立ち上がった。
「見るモンも見たし、帰るかぁ!」
「がーん!?」
その一言に、名月の心がぽっきり折れた音がした。
♨ ♨ ♨
「なあ、名月。うち、何かマズイことを言うたか……?」
「なんでもないです……。大丈夫です……」
それから一時間。外はすっかり暗くなったにもかかわらず、名月と仁佳は未だに同じ喫茶店にいた。
今回こそと力んでいたことが仇になったのか、がっくりと脱力した名月は机に突っ伏して動けない。楽しく一日を過ごしたはずの相手が突然こんなことになって、仁佳もさぞ驚いていることだろう。
「仁佳さん、本当に大丈夫ですので……。お先に帰ってもいいですよ……」
元はといえば、名月が勝手に期待して勝手に落ち込んでいるだけの話だ。彼女はなんとか身を起こしてそう伝えたが、目の前の少女は首を横に振って否定した。
「そがいなわけにゃあいかん。こがいな状態の名月を放って帰るのは仁義に反するけぇ」
「はあ、仁義……?」
「そうじゃ。仁佳の“仁”は仁義の“仁”。この名をもろうたからには、人の道を大事にせにゃあな」
そう言って、仁佳は犬歯を覗かせながらニカッと笑った。
自身の名前の由来まで持ち出されてしまっては無碍にできない。名月は冷めたコーヒーで喉を潤すと、短く溜息をついて姿勢を正した。
「……すみません。最後の最後にこんな姿を見せてしまって」
「構わん。で、どうした?」
「自分の俳句の意味を自分で解説するというのは、とても格好悪いことなのですが」と、名月は続ける。「先ほどの俳句には、松島にとって大事なものが足りなかったんです」
「む……?」
ぴくりと眉根を寄せて、仁佳は俳句が書かれた短冊を手に取った。
「むむむ……。『牡蠣食へば 笛が鳴るなり 瑞巌寺』に足りないもの……?」
「はい。日本三景仲間の仁佳さんなら、そのことに気付いてくれると思ったんです。すみません、勝手に」
「……あ、分かった! うちが『牡蠣は広島産のものしか認めんけぇ!』と豪語したことじゃな!? 松島にとって大切な牡蠣料理への敬意が足りないってわけか!」
「いえ、そこは気にしていませんです。松島産の牡蠣は他の地域で採れるものより小粒ですが、そのぶん身が詰まっていて濃厚、牡蠣本来の味を存分に楽しめる一品としてわたしの自慢ですけど、本当に気にしていませんよ」
「き、気にしてそうじゃのぉ……」
気まずそうに頬を掻く仁佳を見て、名月はくすりと笑った。
俳句の意味を理解ってもらえなかったのは残念だが、たまには普通に事情を話してみてもいいかもしれない。少なくとも“仁”の名を持つ目の前の少女なら、自分の言葉を真摯に受け止めてくれるような気がした。
仁佳は真剣に俳句と睨めっこしている。その手からそっと短冊を取り上げて、名月は椅子から立ち上がった。
「あのっ、海岸へ行きませんか?」
♨ ♨ ♨
日中は賑わっていた松島も、冬の夜となると人通りはまばらになる。
凛と冷えた空気に白い吐息をこぼしながら、名月は仁佳を連れて遊覧船の桟橋にやってきていた。街灯も控えめな海岸にはすっかり夜の帳が下りて、子守歌のような波の音だけが聞こえてくる。
視界を遮るもののない一面のパノラマ――その夜空には、玲瓏 と輝く満月が浮かんでいた。
「おお……!」
と、仁佳が感嘆の声をこぼす。
「そうか……! あの俳句に足りなかったのは……!」
「はい。“松島の月”です……!」
松島といえば、月。
(と、名月は思っている)。しかし、彼女がまだ中学生だということもあって、松島に来た友人たちは昼間で満足して帰っていってしまうのだ。
「牡蠣を食べて、遊覧船に乗って、瑞巌寺を見る。確かにこれは松島を観光するときの王道コースです。でも、なにか忘れていませんか? 松島に来たからには月を見て帰らないと、画竜点睛を欠くことになりますよ。
――というのが、差し上げた俳句の意味なのでした」
「ま、回りくどいヤツじゃのぉ……。まぁ、この景色を見せたい気持ちは分かるが」と、仁佳は苦笑する。
青白い月光に薄ぼんやりと照らされた松島湾はあまりに幻想的で、まるで別世界に誘われたかのようだった。海面は光を反射して銀色にきらめき、島々のシルエットが影絵のように佇んでいる。
何度見ても飽きない景色だ。名月がうっとりとその光景に見とれていると――ふと、仁佳が口を開いた。
「……きっと、アンタの名付け親も“松島といえば月”だと思うとったんじゃろうなぁ」
「え?」
「そうでなけりゃあ。“名月”なんて名前はつけんじゃろ」
そう言って、仁佳はニヤリと名月に目配せする。
「仁佳さん……」
やっぱりこの人は目の付け所が違うな、と名月は思った。
喫茶店での仁佳の言葉を思い出す。彼女の言うとおり、どんな名前にも誰かの想いが籠められているとすれば――松島“名月”という名前をつけてくれた義両親も、きっとこの景色が好きだったのだろう。
「……あのっ、仁佳さん! 今日は松島温泉に泊まっていきませんか!?」
「ん?」
この人とはもっと語り合いたい。名月は改めて確信して、勢いよく仁佳に詰め寄った。
「実は、あの俳句の意味に気付いて『月を見たい』って言ってくれる人がいたときに備えてお泊まりセットを用意してあるんです! 今日の月の入りの時刻も調べてありますし、松島じゅうの温泉旅館の月見露天風呂をハシゴするプランもありますよ! 温泉に浸かりながら眺める松島の月にはまた違った味わいがあって――!」
「はっはっは、分かった分かった。ウチに許可取ってみるけぇ」
饒舌に語る名月に、仁佳は犬歯を見せて笑う。そんな彼女たちの姿を、黄金色に輝く満月が見守っていた。
♨ ♨ ♨
――新学期。
高等部に進学した名月は、『温泉むすめ日本一決定戦』の開催を知ることになる。
多くの人に「松島といえば“名月”だ」と知ってもらうため、彼女はその場で参加を決めるのだった。
Fin.
written by Toshiaki Sato