温泉むすめ伝「豊富水由の章」
初めてまなてぃーと出会った日の事はよく覚えている。
「お近づきのしるしに、どうぞ」
その言葉とともに彼女の地元の名産品である今治タオルを渡された時、私は彼女を変人のカテゴリに入れた。
後日、偶然にも同じ陸上部に入部した事が判明して、顔を合わせば会話するようになって、気付けばあだ名が“まなみちゃん”から“まなてぃー”になって――彼女との付き合いも延べ五年目になる。
まさかあの変人のまなてぃーをこうして自宅に招いて、一緒にテスト勉強する日が来るとはね――と思いながら、私は向かいに座っている彼女を見た。
「あ」
目が合って、私は驚く。もしかしたら私たち、シンクロしていた――? と嬉しく思った瞬間、彼女は読んでいた数学の教科書をぱたんと閉じ、机の上にずるずると突っ伏しながら呟いた。
「はぁ……。中間試験なんてペラッペラのタオルと一緒にこの世から消えちゃえばいいんですよ……」
「あ、違うんだ」
私は冷静にツッコミを入れた。“陸上部なかよしトリオ”――まなてぃー(鈍川まなみ)と、たーまみ(玉名満美)と私――の中で、私は唯一のツッコミ役である。
「ちがう、とは……?」
「あ、何でもない。こっちの話」
真顔で視線を向けてくるまなてぃーを誤魔化して、私は続ける。
「それよりまなてぃー、現実逃避してちゃ駄目だよ! 低血圧で朝ツライのは分かるけど、起床してから3時間は“脳のゴールデンタイム”っていって脳が最も活発に動いてる時間帯なの。今こそしっかり勉強を――」
「あーーーーーーー」
「あっ! またそうやって聞こえないフリする! それも防衛機制の一つ! ほら、教科書持って!」
私はまなてぃーの眼前に教科書を突き出した。彼女はしぶしぶ教科書を受け取ると、溜息まじりに言う。
「水由……。私のやる気が出ないのは、あなたのせいでもあるんですよ?」
「えっ? 私、何かした?」
「さっき気付いたんですけど……水由、数学のテスト範囲38ページまでって言ってたけど、よくみたら28ページまでじゃないですか……。おかげでやらなくていいところまで勉強しちゃったじゃないですかぁ……!」
「え? ……ええーっ!? ほんとに!?」
慌てて数学のノートを確認すると、確かに「教科書28ページまで」と書いてある。
単純な聞き間違えだ。わざわざ教科書のページを確認せずとも、授業をしっかり聞いていれば範囲を間違えようがないので、自分では気付かなかったらしい。まなてぃーには悪いことをしたけれど、まあ、でも、しかし――
「うん! ちょっと早いけど期末試験の勉強したと思えばさ。結果オーライ! ねっ!」
だが、私のサムズアップはまなてぃーの心に届かなかったようだ。
「出た、結果オーライ……。水由の結果オーライも中間試験とペラッペラのタオルと一緒にこの世から消えちゃえばいいんですよ……」
「うっ!?」
まなてぃーは恨めしそうな顔で私を一瞥すると、再びずるずると机の上に突っ伏した。
毎日しまなみ海道をサイクリングするくらい体力がある彼女でも、連日のテスト勉強となれば別。酷使する脳の部位が異なるせいか、その表情には疲れの色が見える。
こんな時は――やはり温泉だ。私は立ち上がって言った。
「まなてぃー、温泉に入ろっか!」
「………………はい?」
まなてぃーが冷ややかな目で私を見ていた――。
♨ ♨ ♨
すれ違うお客様に挨拶しながら廊下を進み、大浴場に到着する。赤い暖簾をくぐって脱衣所に入ると、まなてぃーが感嘆の声をあげた。
「わぁ……。噂には聞いてましたけど、石油の臭いがすごいですね……」
「あれ? まなてぃー、何度も豊富来てるよね? うちの温泉入ったこと……あっ、ありませんでしたね……」
そうだった。この子は豊富町に来るたび、大自然の中でのサイクリングの衝動を抑えきれずに飛び出して――そのまま音信不通になってしまうのだった。
さすが変人カテゴリ。温泉むすめではなくサイクリングむすめに名前を変えた方がいいんじゃないだろうか。
「水由、いつも話してくれますよね。石油の試掘してたら湧き出た、国内唯一の泉質を持つ温泉だと」
「そう。レア中のレア! だからって別に、私に特別な力が備わってるわけじゃないんだけどね。あはは!」
タオル片手に大浴場に繋がるドアを開けると、見慣れた黄褐色のお湯が目に飛び込んでくる。
しっかり掛け湯をしてから湯に浸かる。湯船に体全体を沈めたら、目を閉じて、ゆっくりと深呼吸。
――うん、今日もいいお湯だ。
ふと隣を見ると、まなてぃーが両手ですくったお湯を興味深そうに見つめていた。その様子がまるで子どものように可愛くて、つい微笑んでしまった。
「お湯の表面に油が浮いてるでしょ? だから豊富温泉のお湯は、通称“油風呂”って呼ばれてるんだよ」
「本当だ。油が光に当たって虹色に光ってる……。すごい、こんなに油が――」
と、まなてぃーが湯面に浮かぶ油をよく見ようと覗き込んだ瞬間――事件は起こった。彼女の頭の上に乗せてあった今治タオルが、ぽちゃんと音を立てて湯船に落ちてしまったのだ。
「ああぁーー!! 私の今治タオルがぁぁーーーーー!!」
まなてぃーはすぐに今治タオルを拾い上げたが、時すでに遅し。白くてふわふわだったタオルには、油と石油の色と臭いがべったりとついてしまっていた。
「み、水由……! これどうすれば落ちるんですか!?」
「いやー、一度ついた油はなかなか落ちないと思うよ。だから私なんか最初から黒いタオル使ってるもん。ほら」
「…………!!」
私が温泉用の黒いタオルを見せると、まなてぃーは目を見開いたまま絶句した。
「あー、最初に言っとけばよかったね。私、まなてぃーがうちの温泉初めてだと思わなくて……」
「そ……そんな……。私のふわふわの今治タオルがぁ……」
まなてぃーは絞り出すようにそう呟く。その瞳には絶望の色がありありと浮かんでいて、もはや温泉を楽しめる心理状態ではなさそうだ。私はせめてもの希望になればと思い、ダメ元で情報を伝えることにした。
「そ、そう言えば、油汚れには食器用洗剤とかクレンジングオイルがいいらしいよ。シミには水溶性と油溶性と不溶性の3種類あって、どの種類かによってシミ抜きの方法が――」
「試しましょう!!」
私が言い終わらないうちに、まなてぃーが湯船から立ち上がって言った。
「へっ?」
「私のふわふわの今治タオルよ、カムバーック!!」
まなてぃーはそう叫ぶと、今治タオルを持って脱衣所に向かって歩き出した。
長年の付き合いだからこそ分かる。偏執的ともいえる今治タオルへのこだわりがあるまなてぃーはこうなったが最後、歯止めが効かない。温泉むすめならぬ、サイクリングむすめならぬ、今治タオルむすめ。それが彼女だ。
私はとことん彼女に付き合おうと、温泉もそこそこに大浴場をあとにしたのだった――。
♨ ♨ ♨
「はぁはぁ……。全っ然落ちませんね……」
「はぁはぁ……。全っ然落ちないね……」
「もういいです……。この今治タオルは豊富温泉専用にします……」
「うん……。それがいいかもね……」
二時間後――。私とまなてぃーは疲れ果てて、旅館にある勉強部屋に戻って休んでいた。大浴場を出て、いろいろ試行錯誤してみたものの、結局今治タオルについた石油の臭いまでは落とす事ができなかったのだ。
私たちは床に寝転がったまま、ぽつぽつと話をする。
「水由……。私たち、今日だけで少なくとも三週間分は洗濯しましたよね……?」
「したした……」
「業務用のたらいにお湯張って、洗剤入れて、洗濯して、すすいで……。なんか普段使わない筋肉使ったような気がします……」
「私も……。うぅ……。体の節々が痛ーい……」
そう言いながらも、私は自分の体が軽くなったのを感じていた。最近テスト勉強ばかりでろくに体を動かしてなかったからかもしれない。仰向けに寝転がったまま静かに深呼吸していると、やがて手足の指先まで酸素が行き届いて、だんだんと活力が漲ってくる。お腹が空いた。そう言えば、そろそろお昼の時間だ。
私は「ねえ、お昼どうする?」と言いかけて、まなてぃーが数学の問題集をペラペラとめくっている事に気付いた。
「あ、それ私が買ってきたやつ――って、何やってんの?」
「なんだかこの問題集を見ていたら、ムラムラしてきまして……」
「ムラム……なんて?」
まなてぃーは私のツッコミに耳も貸さず、数学の問題集を解き始めた。ペンを動かす彼女の手は一切止まる気配がなく、その瞳は瞬きすら惜しんでいるかのようだ。
「水由……。解ける……! 私、今ならどんな問題も解ける気がします!!」
まさに一心不乱。私は、異様ともいえる彼女の姿を見ているうちに気付いた。これは――
「ドーパミンだ! 勉強の前に適度な運動をしたからドーパミンの分泌量が増えて、運動後のこの三時間、超集中モードになってるんだ……!!」
まなてぃーはあっという間に大問を解き終えると、目を血走らせて言った。
「水由……。他には……? 他には何かないんですか……!?」
「えっ。ご、ごめん。あれしかなくて……」
「はーー……。はーー……。解きたい……! 今すぐ解きたい……!! 私、ちょっと買いに行ってきます!!」
まなてぃーはそう言うなり部屋を飛び出していった。
私はしばらく呆然として――それから、とりあえず大きく伸びをした。今日は全然テスト勉強ができなかったし、温泉にはゆっくり浸かれなかったし、まなてぃーの今治タオルには石油の臭いがついたままだ。
でも、まなてぃーは元気を取り戻した。こんな日が一日ぐらいあっても、いい。
「結果オーライ! ……だよね」
(おわり)
written by Miyuki Kurosu