story おはなし

温泉むすめ伝「山中そららの章」

 ふいに小鳥が飛び立つ音がして、目を見開いた。

 しまったと思いスマートフォンを見ると、こおろぎ橋に来てから一時間近くが経っている。私はがっくりと項垂れて溜息をついた。

 

「あぁ、もうこんな時間か……。今日は休まなくちゃいけないのに……」

 

 本当は今頃、地元で行われる『こいこい祭り』のステージに向けて舞の練習をしているはずだった。でも、「最近根を詰め過ぎだ」「今日は休みなさい」とお義母さんに止められてしまったのだ。私は休んでる場合じゃないと反論したんだけど、無理して倒れたら元も子もないでしょうとぴしゃりと返されて――急遽休むことになった。

 でも、私の趣味といえば少年漫画を読むことと橋の上で佇むことぐらい。今日はたくさん練習できると意気込んでいただけに、部屋に籠って漫画を読む気にもならず、気付けばいつものように橋の上で佇んでいた。

 

「休みなさい、か……。休むって何したらいいんだろう……?」

 

 私が橋の下に広がる鶴仙渓を眺めながら呟いた、その時だった。

 

「さすが、絵になりますね」

 

 突然背後から声をかけられて振り返る。琥珀色の髪を風になびかせ、そこに立っていたのは――作並日果ちゃんだった。

 

「いつ見ても涼やかな立ち姿ですね。また俳句でも考えてたんですか?」

 

 そう言って、日果ちゃんはからかうような目つきで私を見る。

 

「日果ちゃん……? どうして山中温泉に?」

「図書館からのお届け物です。そららさんが読みたがっていた心理学の新刊が入荷したので」

「え、わざわざ? ありがとう……!」

 

 差し出された本を受け取ると、私は早速ページをめくり始めた。

 日果ちゃんと知り合ったのは師範学校の図書館だ。あがり症で人前に立つとすぐお腹が痛くなる私は、メンタル強化本の渉猟を心がけていて――ある日、受付カウンターでたまたま声をかけた図書委員が彼女だった。日果ちゃんは師範学校の図書館を隅から隅まで知り尽くしており、どんな本もたちまち探し出してくれるので、よく頼らせてもらっている。

 

「いい……。今回の本もすっごくためになりそうだ……!」

「間に合ってよかったです。確か、もうすぐお祭りだって言ってましたよね」

「うん。『こいこい祭り』っていうんだ。小さな頃からお客さんとして楽しんでたんだけど、今回は私のステージも用意してもらえることになってね。絶対に失敗したくないんだ」

 

 それなのに今日は練習を休めと言われて、などと愚痴っていると、日果ちゃんがくすりと微笑む。

 

「相変わらず真面目ですねえ。お休みの仕方が分からないんだったら、どうですか? 一献」

「遠慮しとくよ。明日の練習に響きそうだからね……」

 

 スキットル――恐らく、中身はウイスキーだろう――の飲み口を向けてきた日果ちゃんを手で制する。彼女と酒席を共にしたことはないけれど、私の本能が「やめろ」と警告音を鳴らしていた。

 

「あら、残念です」

 

 日果ちゃんは特に残念じゃなさそうに笑うと、「ふむ」と少し考えて、言った。

 

「では、私と一緒に出かけませんか?」

「へっ?」

「実はこれから夏月ちゃんのライブを観に行く予定なんです。少しは気分転換になるかもしれませんよ」

 

 鳴子夏月ちゃん。彼女とも図書館で話したことがあるが、元気いっぱいの可愛いらしい女の子だ。

 彼女のライブなら観てみたい。私は日果ちゃんの誘いに乗り、宮城県の鳴子温泉へと向かったのだった。

 

♨          ♨          ♨

 

「こ、これが……ライブ……!?」

 

 一時間後。鳴子温泉駅に設けられたライブ会場で、私は混乱していた。

 歌を歌い、元気いっぱいに踊る。そこまではいい。しかし、それが一段落すると――夏月ちゃんは急に「こけしコレクション」なるものを引っ張り出してきて、ステージ上で披露し始めたのだ。いや、歌っている時からお客さんがペンライトではなくこけしを振っていたりと、違和感を覚えてはいたのだが……。

 疑問に思う私を尻目に、日果ちゃんやお客さんはニコニコしながら夏月ちゃんの話を聞いている。この自由奔放なスタイルでしっかりお客さんを魅了しているようだ。

 そうか。ライブってこんなに自由なものなんだ――と、私が感心していた、その時。

 

「あーした天気になーれ!!」

 

 夏月ちゃんの声がして、何か黒い影がこちらへ飛んできた。

 

「いたっ!!」

 

 ――額にぶつかったそれを咄嗟にキャッチする。何かと思って見てみると、EVA素材というのだろうか、柔らかいスポンジのようなもので作られた下駄だった。いや、でも痛かったけど。

 

「よかったですね、そららさん。大当たりですよ」

 

 下駄を持って困惑している私に、日果ちゃんが言う。

 

「えっ? どういう意味――」

「ごめんごめん、痛くなかったー? って、あー! そららちゃんだー!」

「!!」

 

 夏月ちゃんから声をかけられて、私はびくりと身を強張らせた。“主役”が呼びかけたのに反応して、会場のお客さんの視線が私に集まっている。

 

「図書館の外で会うの初めてだね! わざわざ来てくれたの? ありがとー!」

「えっ、いや、あの……」

 

 私があたふたしていると、日果ちゃんがのんびりとした調子で言う。

 

「夏月ちゃーん、ライブ中ですよー」

「えっ? あ! 日果ちゃんまで! ってそーだそーだ、ライブ中なんだった!」

 

 二人のやりとりに客席から笑いが起こる。お客さんの視線が日果ちゃんの方に逸れて、私は胸を撫で下ろした。

 

「そららちゃん、こっち来て!」

 

 ――の、だが。

 

「下駄をキャッチしてくれたファンの方には、そしな? をプレゼントしておりまーす!」

「え……」

 

 再び矛先を向けられて、私は絶句した。

 そっと周りを見ると、案の定、お客さんの視線も再び私に集まっている。悪目立ち。孤立無援の状況。なんだか胃が痛くなってきて、私は首をぶんぶんと横に振って「辞退」のアピールをする。

 

「大丈夫ですよ。あそこまで行って記念品をもらってくるだけです」

 

 そんな私の様子がおかしいのか、日果ちゃんがくすりと笑って言った。

 

「そ、そうなんだけど……」

「おーい、そららちゃーん! 早く早くー!」

「ひぃ!」

 

 夏月ちゃんにも急かされる。やむなく、私はぎこちない動きで立ち上がった。

 そうだ。何も難しいことはない。ステージに上がって記念品をもらってくる、それだけでいいんだ。

 自分に言い聞かせ、ステージに上がる。できるだけ客席を見ないようにして夏月ちゃんに歩み寄り、下駄を渡して――

 

「では! 大当たりを引いたそららちゃん、今のお気持ちはー?」

「はう!」

 

 夏月ちゃんの一言が、私に襲いかかった。

 反射的に客席を見てしまう。そこには、私に集まるお客さんの目、目、目……。

 ど……どうしよう。いやどうしようじゃない、何か言わなきゃ。あれ、何を言うんだっけ。夏月ちゃんの質問が思い出せない。えっと、えっと……!

 すがるように夏月ちゃんを見た私は、ふと閃いた。

 ぴんと背筋を伸ばして、左足を引く。その勢いでくるりと一回転すると、夏月ちゃんに向かって一礼する。

 

 ――楽しませてくれてありがとう。

 

 言葉にはできなかったけれど、そんな思いを込めた一礼を終えると――客席から拍手が聞こえてきた。

 日果ちゃんだ。その拍手は瞬く間に周りに広がって、ついに会場全体が大きな拍手に包まれた。

 夏月ちゃんが興奮したように言う。

 

「すごいすごい! きれいなお辞儀! まるでお芝居の中のお姫様みたいだったよ!!」

「ひぃ! ほ、ほめすぎ……!!」

 

 恥ずかしさのあまり俯く。と、夏月ちゃんが私にこけしのキーホルダーを差し出し、言った。

 

「はい、記念品のこけしキーホルダー! また来てね!」

「ひゃ、ひゃい……」

「みんな、そららちゃんにもう一度大きな拍手ー!」

 

 夏月ちゃんの言葉に、再び拍手が沸き起こった。私はおそるおそる客席を見た。日果ちゃんも、他のお客さんも、みんな満足そうに笑っている。私は嬉しいような恥ずかしいような、こそばゆい気持ちになって、ただただ照れ笑いを浮かべるのだった。

 

♨          ♨          ♨

 

「なるほど、これが噂の菊の湯アイスキャンディーですか」

「口の中がさっぱりしていいだろう? ライブ後のクールダウンタイム、だね」

「ライブ? そららさんが頭を冷やしたいのは、自分がステージに上がったからじゃ――」

「うおっほん!」

 

 山中温泉、アイスストリート。

 先ほどの余韻で、なんだかまっすぐ家に帰る気分になれなかった私に――日果ちゃんが「少しお腹が空きましたね」と言ってくれて、私たちはアイスを片手にあてどなく歩いていた。

 

「こいこい祭りのステージも、あれぐらい盛り上がってくれたらいいんだけどな。もっともっと練習しなきゃ……」

「大丈夫ですよ」

「えっ?」

 

 驚いて日果ちゃんに目を向けると、彼女は琥珀色の瞳に優しい光をたたえてこちらを見ていた。

 

「今までたくさん頑張ってきたんですから。この先は、頑張って練習してきた自分を信じてあげてください」

「……」

 

 ――簡単に言ってくれるなあ。

 

 そう言い返そうとしたけれど、なぜかその言葉は私の口から出てこなかった。自分でも理由は分からないけれど、もしかしたら、心のどこかで日果ちゃんの言葉に納得しているのかもしれない――。

 

「なんて、漫画の受け売りですけど」

「……ん?」

 

 目を丸くした私を見て、日果ちゃんが悪戯っぽく目を細める。「なんだよ……」と、私は苦笑した。

 

「ところで、日果ちゃんって漫画読むの? てっきり活字の人かと」

「少女漫画中心ですけどね。よく読みますよ」

「へー。私も漫画好きでよく読むんだ。さっきの台詞、なんて漫画に出てくるやつ?」

「なんでしたっけ。ええと確か……」

 

 菊の湯アイスキャンディーをかじりながら、日果ちゃんの次の言葉を待つ。ひんやり冷たいアイスキャンディーが喉元を通って、私の頭をすっきりさせてくれる。

 こいこい祭りのステージが、少しだけ楽しみになってきた。

 

(おわり)

written by Miyuki Kurosu

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