温泉むすめ伝「湯河原伊露羽の章」
ある春の日の放課後のこと。師範学校の片隅にひっそりと立つ桜の古木の下に、ひとりの少女が佇んでいた。名前は湯河原伊露羽。端正な顔立ちに一際目を引く澄んだ双眸――枯淡な雰囲気を身に纏う湯河原温泉の温泉むすめである。
彼女は一通の封筒を手にしていた。何やら思いつめた様子でその封筒へ目を落としていると、背後から声がかかった。
「伊露羽さん。用ってなんなの?」
振り返ると、声の主である長門櫻がいた。山口県は長門温泉の温泉むすめで伊露羽の文芸部の後輩だ。
「来てくれてありがとう、櫻。これを受け取って欲しかったの」
伊露羽は手紙を差し出した。かすかにその顔を緊張に強張らせて。
「あなたへの恋文よ」
「えっ」
瞬間、風が吹き抜ける。舞い落ちる桜の花弁の向こう伊露羽を見つめ返す櫻の頬はほんのり赤らんでいた。
櫻は純白の封筒を受け取ると、言う。
「ありがとうなの、伊露羽さん。こんな素敵なラブレター……」
「待って。それで終わりじゃないわ」
「え?」
伊露羽が鞄の中から追加の便箋を取り出した。それが一枚……また一枚と延々と増えていく。
「え!?」
気付けばはんぺんもかくやという分厚さになった恋文に、櫻は思わず苦悶の声を上げた。
「えぇ……」
♨ ♨ ♨
「もー、私のドキドキ返してほしいの! あんなシチュエーションでラブレターなんて渡されたら告白だと思っちゃうでしょ!」
頬を膨らませて怒る櫻に、伊露羽は肩を竦めた。
「ごめんなさい。変な勘違いをさせてしまったわね」
ところ変わって文芸部の部室である。他の部員達が宿題をしたりお菓子を食べたりと文学そっちのけでのびのび活動している中、伊露羽と櫻は机を挟み向かい合っていた。
「それで、どういうことなの? ラブレターの書き方を教えてほしいって」
「私の作品を完成させるためには、あなたに教えを乞う必要があると思ったのよ」
伊露羽は自分の半生を元にした長編小説を執筆していた。より作品の質を高めるためには「想いを伝える文章」の習得が必要と思い立ち、日夜恋文をしたためている櫻に教えを請おうと考えたのである。
「愛を伝える場面を書きたいのだけれど、うまく想像が膨らまなくて」
「ふーん。それで私に目を付けたってわけなのね。そこは褒めてあげるの」
伊露羽は机の上に置かれた恋文の一枚を手に取った。
「で、どうかしら。恋文にしては少し長くなってしまったけれど、中々の出来だと――」
「全然ダメなの」
「ダメ……?」
「長すぎなの。相手への思いも全然書いてないの」
「そ、そうかしら……」
「そもそも内容どうこうの前にまず書き終わってない時点でありえないの!」
櫻の差し出した恋文、その最終ページ最後の行はこれである。
『夜の汀をそぞろ歩く、狸の親子の目が爛々とひか』
「光っていた」と書きたかったのだろうか。ものの見事に書きかけであった。
己の書いた文を改めて目にし、櫻の指摘は至極もっともと納得した伊露羽だが、彼女としても当然言い分はある。
「文学は美しい文章をしたためるべきでしょう。ああでもない、こうでもないと推敲を繰り返していると永遠に終わらないのよ。それは恋文であろうと変わらないわ」
「そんなんじゃ好きな人に思いのひとかけらも伝えられないの! 気取ってばっかりいるから、こんなダメダメラブレターになっちゃうの!」
「ダ……また……言った……」
伊露羽の自尊心を適確に削る猛ラッシュの如き櫻のダメ出しである。可愛い顔に似合わず自分の意見をはっきり言うのが長門櫻という少女であった。だからこそ添削者として非常に頼もしいのだが、いざ畳みかけられるとダメージは深刻である。
「まずはイメージ! 好きな人はどんな人? 顔は? 背は? 体重は? 何が好き? 何が嫌い? 私達はどうやって出会った? 妄想の海に潜れば潜るほど無限に広がっていく二人の関係性! そこからぎゅっと煮詰まった濃密な出汁のような相手のイメージ! そこから迸るとめどないラブ!」
熱弁をふるいながら櫻は恋文を伊露羽につき返す。
「私が教えるからには、素敵なラブレターを書いてもらうの! というわけで、まるっとぜーんぶ書き直しなの!」
「ぜぜぜぜぜぜぜんぶ…………」
伊露羽は震えた。心だけではない。物理的に振動した。
その落ち着いた雰囲気と怜悧な面差しから何を言われても動じなさそうと思われがちな伊露羽だが、実は結構な豆腐的貧弱精神の持ち主である。
「はぁ……はぁ……願ったり叶ったりだけど……日を改めていいかしら」
果たして、櫻にボコボコにされた伊露羽の自尊心が回復するのはいかほどか――。
♨ ♨ ♨
正解は2日である。部室に入るなり櫻の姿を認めた伊露羽は一直線に彼女の元へ向かった。
「書いてきたわ。できるだけ短く、かつ情景をイメージしてみたの」
伊露羽は櫻に一通の便箋を差し出した。前回の凶悪な分厚さから考えればこれだけで進歩と言えよう。
「どれどれ~?」
添削とはいえ人の恋文を読むというのは心をくすぐるものなのだろう。櫻は顔をほころばせつつ出来立てほやほやの恋文を受けとると、早速目を通した。開幕の一文はこうだ。
『夕飯はたぬきうどん?』
「ダメーーーーー!」
ときめきはどこにあると言わんばかりの咆哮である。期待の反動があまりにも大きすぎたのか、櫻は目いっぱいに涙を溜めて伊露羽に食って掛かってきた。
「この世界のどこに『夕飯はたぬきうどん?』でときめく女子がいるか教えてほしいの! 一体どんな妄想したの!?」
思ってもいなかった反応に伊露羽は震えた。津波の如く押し寄せる動揺を必死に受け止め、自分の思い描いたイメージを恐る恐る紐解いてみせた。
「だ、旦那様が妻に宛てているイメージなんだけれど……」
「なんで夫婦!? ラブレターでしょ!?」
「新婚で、旦那はあまり妻の事を愛していないという設定で」
「闇が深すぎるの! 愛してない相手になんで手紙書くの!? ほんとにラブレター書く気あるの!!? ボツボツ大ボツなの~~~!!!」
「ボボボボボボボボツ……わ、わかったわ。また少し……時間を……ちょう……だい…………」
動揺に目が泳ぎ、声が消え入っていく。完膚なきまでに打ちのめされた伊露羽は、それからしばらく、筆を取ろうとするたびに櫻の泣き顔が脳裏に浮かんできては寝込む日々を強いられることになった。
♨ ♨ ♨
今度の回復にかかったのは一週間だった。部室に入るなり伊露羽は櫻に一通の便箋を差し出す。
「書いてきたわ」
「本当に大丈夫なの……?」
伊露羽がうなずく。一見普段と変わらないふうに見えるが、よく見るとすでに小刻みに震えていた。
「結婚したばかりの男が昔の想い人に向けて手紙を書いているという設定で……」
「わーーーー! もう読むまでもないの! 設定が汚らわしすぎるのーーー!」
「けけけけけけけけ……」
何もそこまで言わなくてもいいじゃないか。奈落より深い絶望の谷間に突き落とされた気分の伊露羽である。
一方の櫻もやはり目いっぱいに涙を溜めていた。
櫻にとって、実は伊露羽は憧れの先輩であった。超然としたたたずまいに穏やかな物腰。そして何よりも文学への熱意とその創作物の格式高い文体。
(それなのに、ああそれなのに……! ことラブレターとなるだけで、どうしてこんなに歪んでしまうの!?)
声にならない魂の絶叫が櫻の心をつんざく。まさか憧れの存在を自分が越えてしまったのか? いやそんなはずは……悲しみと絶望に彷徨う櫻の心は、耐えがたき苦しみに、ざくろのようにぱっくり分かたれる。しかしてそのひだに潜んでいたのは、予想だにしない閃きであった。
「……伊露羽さん。文学を捨てよう」
「え……?」
「全部文学のせいなの。美しい文章を書こうとしすぎるあまり思いが伝わらなくなってるの」
一瞬櫻の言葉が伊露羽には理解できなかった。頭の中で反芻して、ようやく意味が頭の芯に到達する。到達したところで到底腑に落ちるものではなかったが。
「だ、だけど、文学を捨ててしまったら、どんなふうに書けばいいか見当もつかないわ」
「何が文学か! 伊露羽さんが書きたいのは想いを伝える文なんでしょ? なら、まず伊露羽さんの素直な気持ちを書いてみるべきだと思うの! ほら、伊露羽さんのしたい恋はどんな恋!?」
「急に言われても……。それって書く意味はあるのかしら。やはり鬱屈した人間同士の関係にこそ文学的要素が」
「このわからずや! だったら文学と一緒に人間も捨てちゃうの~~~!」
もはや言っていることがめちゃくちゃである。人間を捨てるなんて、では一体何が誰に向けて恋文をしたためると言うのか。困惑する伊露羽は改めて自分の恋文に目を通した。何か手掛かりになる物はないかと思っていると、ふと一節が目に入る。
『狸の逢瀬』
たまたま。本当にたまたまだが、思い返せば恋文の今まで櫻に書いて見せた恋文の一節には、どれもたぬきのことを書いていたことを思い出した。
伊露羽は狸が好きであった。つぶらな瞳、冬毛のまん丸とした姿かたち。そして――。
「ああ……」
カチリと、ちぐはぐだった伊露羽の心が整った。
「櫻。ありがとう……書けるかもしれない」
「ほんとなの!?」
便箋を折りたたむと、伊露羽は立ち上がる。
「私、たぬきになるわ」
♨ ♨ ♨
そして翌日。今回はかつてない早さである。
「きゅーん」
櫻は便箋を抱きしめ悶えていた。
『今すぐ君に会いたい。恋しい』
この一文で締められた恋文は、確かに櫻の心を射抜いたのだ。
「ときめき100点満点のすっごくいいラブレターなの……きゅきゅーん」
いつも通りの無表情だが、心なしか得意げな伊露羽である。
「餌を探しに遠くの山へ行って、ふと寂しくなった夫たぬきの心情よ」
「相変わらず夫婦の話なのはこの際目をつぶっておくの。でも、なんでたぬき?」
「脳内を揺蕩うおぼろげな恋のイメージをかき集めるとこんな形になったの――激しくなくていい。仲睦まじく寄り添っていける相手と緩やかに想いを紡いでいきたい、と」
淡々と語る伊露羽だが、その言葉の底には柔らかな実感がこもっていた。心地よい声音で伊露羽はぽつぽつと語り続ける。
「実家の近くに狸福神社という小さなお社があるの」
温泉で傷を癒し、その果てに結ばれた狸の夫婦。あくまで民話の、それも一説にすぎないが、湯河原温泉にはそんな小さな恋が由来となった縁結びの社があった。それが狸福神社である。
「小さい頃……本当に小さくて忘れてしまっていたのだけれど、その逸話を聞いた時、自分もそんな相手と巡り合えたらどんなに幸せだろうと思ったわ」
これは、まぎれもない伊露羽の恋の原点であった。その淡い想いが素直な気持ちを込めた恋文へと昇華されたのだった。
「伊露羽さん。もう私から言うことは何もないの」
もう一度、櫻は恋文に目を落とした。一枚の便箋にしたためられた真摯な感情。中でも目を引くのはやはり最後の一文である。
「『今すぐ君に会いたい。恋しい』この文の結び、完璧なの! シンプルだからこそ際立つ相手への慕情が読み手へもダイレクトに伝わって――」
「何を言ってるの、櫻」
「の?」
ぽかんとする櫻の前に伊露羽は紙束の山を置いた。初めて持って来た時の厚みをはるかに超える、もはや鈍器と言ってもよい殺人級の分厚さである。
「溢れる気持ちを書き連ねていたら、こんな量になってしまったわ」
「……」
櫻は恐る恐る最後の一ページをめくった。そこに書かれていた一文はこうだ。
『庫裡の裏にて栗を拾い君を呼ぶ。我ら狸、愛と哀の合間にもにおいた』
「伊露羽さん……まずは書ききることが絶対大事なの!」
伊露羽へのスパルタ式恋文レッスンは、もうしばらく続きそうである。
Fin.
written by Ryo Yamazaki