story おはなし

温泉むすめショートストーリー「お掃除砂和ちゃん」

「――というわけで、今日この日が『露天風呂の日』になったのは湯原温泉がきっかけなんだよ! ここまでで質問ある?」

 6月26日、露天風呂の日の朝であった。
 湯原温泉、砂湯そば。わざわざ屋外まで引きずってきたホワイトボードに「指南内容」を書き終えて、湯原砂和はにこやかに振り向いた。
 そこでは、二人の「生徒」――湯郷美彩と奥津かがみがちょこんと体育座りをして彼女の講座を聞いている。かがみが熱心に板書を書き写しているかたわら、美彩が待ってましたとばかりに手を挙げた。

 

「せんせー、しつもーん」
「どうぞ!」
「いつになったらお掃除始めるんですかー?」

 砂湯ではすでにお湯が抜かれ始めており、温泉街の人々や地元の業者、中学生まで参加しての大掃除が始まっている。今すぐ体を動かしたくて仕方がないといった様子でそわそわとそちらを見る美彩を「もうちょっと我慢してね」と諭して、砂和は続ける。

「ここまでが『露天風呂の日』の歴史の話。ここからが大事な『掃除のしかた』の指南なんだから」
「ここからもうひと授業あるの!?」
「うん! 温泉指南役の私としては、せっかく助っ人に来てくれた二人に安全なやりかたを覚えてもらって、怪我なく帰ってほしいもの!」
「それは分かるけど! なんでわたしたちだけ!? しかも現地で! 目立つよこれ!」
「他のみんなには事前に指南したの」

 砂和が砂湯に目をやると、中学生たちが「砂和せんせー♪」と手を振ってくる。にこにこと手を振り返しながら、砂和は「ね?」とばかりに美彩を見た。

「質問は以上かな? かがみちゃんも大丈夫?」
「あ、えっと……うん」
「それじゃ、続けるね。まずは『なんで砂湯を掃除するのか』ってとこからだけど――」

 砂和が板書を始め、かがみがそれを書き写し始める。
曰く、砂湯はたくさんのお客さんが利用してくれている。
曰く、水質検査をしてみると、基準値の100倍の数値が出てしまうことも。
曰く、衛生的で安心できる露天風呂のため、定期的な大掃除は欠かせない。
などなど、興が乗ってきたらしき砂和のペンがホワイトボードを滑るように次々と文字を描き出していく。
と、その隙に――美彩がかがみの手を取って、密やかに立ち上がった。

「え? み、美彩ねえ?」
「しーっ」

 イタズラっぽく笑い、二つ持ってきたデッキブラシの片方をかがみに渡す。そうして美彩は、「あたしたちも入れてくださーい!」と砂湯に向かっていった。「ダ、ダメだよ……!」と、かがみがあせあせと追う。

「砂和ちゃんに付き合ってたら日が暮れちゃうって! やりながら覚えればいーの!」
「でも……」

 いつものことと言えば、いつものことであった。
教えたがりの砂和に対し、美彩はじっとしているのが嫌いで、考えるより先に体を動かしたがる。かがみにしてみれば、その二人の間で板挟みになるのが自分の「お役目」のようなものだ。
 とはいえ、ここは湯原温泉で、今日の主役は砂和だ。優柔不断なところがあるかがみといえど、誰を優先すべきかは明確だった。

「み、美彩ねえ、やっぱり戻ろう?」

 かがみが美彩のTシャツの裾を引っ張って、ホワイトボードを指差す。

「ほら、砂和ねえもあんなにびっしり書いてくれてるし……って、砂和ねえ!?」

しかし、そこに砂和はいなかった。

「美彩ちゃんもかがみちゃんも、私のことなんてもういらないんだ……」

 砂和は砂湯広場の隅っこにうずくまっていた。うずくまって、砂利をいじっていた。

「わーっ!?」

 かがみは慌てて駆け寄った。美彩も遅れてついてくる。

「ご、ごめんなさい砂和ねえ! ちゃんとお話聞くから! ね?」
「無理しなくていいよ……。どうせ私の指南なんてつまんないんだし……」
「すっごい拗ねてる……」

 美彩が思わずそうこぼすほど、砂和の背中は哀愁にまみれていた。指先でちまちまと砂利をいじり、二人のことを見もしない砂和の拗ねっぷりに、かがみは「どうしようどうしよう」とうろたえる。彼女は助けを求めるように美彩を見て、砂湯で掃除をしている地元の人々を見て、最後に手元のデッキブラシを見て――ハッとしたように顔を上げた。

「……このブラシ、使い方分からないなあ……」

 ぴくっ。
 明らかな棒読みであった。しかし、砂和の背中が反応する。

「どうやって使うのかなあ……」

 ぴくぴくっ。

「美彩ねえはサッカー、わたしは足踏み洗濯。二人とも足を使うのは得意だけど、こういうのはあまり使わないからなあ……。誰かに教わりたいなあ……」

 ぴくぴくぴくっ。

「……砂和ねえ、教えてくれる?」
「しょうがないなあー!!」

 砂和は満面の笑顔で立ち上がった。

「えー? 普通のブラシでしょ? 別に教えてもらわなくても――」
「がうっ!」
「あ、はい。何でもないです」

 まるで意図を理解していない美彩をかがみが威嚇する。いつもは振り回されてばかりの彼女だが、こと砂和と美彩の扱いに関しては一日の長があった。

「じゃあ二人とも、こっち来て! 温泉指南役としてイチから教えてあげる!」

 砂和は自分のデッキブラシを手に取ると、二人を手招きして砂湯の一角に降り立つ。砂湯の湯が抜かれている光景が新鮮なのか、美彩とかがみも興味深げに後に続いた。

「力を籠めすぎちゃダメなの」と、砂和がデッキブラシを構える。「こうやって、ブラシの先端が曲がりすぎない力加減で――ごし、ごし、ごし、ごし」
「ふむふむ」
「なんとなくやるのもダメ。温泉の恵みと、来てくれるお客さんへの感謝の気持ちを忘れずに――ごし、ごし、ごし、ごし」
「自分の手で、丁寧にお掃除するんだね……!」

 いよいよ体を動かせるとあって、今度は美彩も真剣に聞いている。「感謝」のくだりなどはかがみの琴線に触れたようで、彼女は尊敬の眼差しで砂和を見つめていた。

「温泉のお湯をそのままお掃除に使うの?」と、美彩が訊く。
「お、いい質問! 湯原のお湯は今でもお洗濯に使ってて、ニオイがさっぱりなくなるって評判になるくらいの泉質だからだね。他の温泉地で、泉質が違うなら水道水の方がいい場合もあるよ」

 珍しく美彩から質問されたことが嬉しいのか、砂和は意気揚々と答えた。すっかり機嫌を直した彼女の笑顔を見て、かがみも安堵したように口元を綻ばせている。
 元気よく掃除する人々の声があちらこちらで響く。いつもは浴槽の底に隠れている砂利たちが気持ちよさそうに朝日を浴びていた。

いい一日になりそうだ――と、誰もが思っていた。
 ――何気なく、美彩が口を滑らせるまでは。

「やー、砂和ちゃんは『温泉掃除博士』だね!」

 ぴくりと、砂和の動きが止まる。
 ギ、ギ、ギ、と――まるでギアの噛み合わせが悪くなったロボットのように首を動かし、彼女は美彩を見た。その瞳に、抜き差しならないシリアスな色を湛えて。

「やっぱり、美彩ちゃんもそう思う……?」
「へ? 何が?」
「『温泉掃除学』!! 学問として作るべきだと思うよね!?」
「何の話!?」

 その目つきのままずいっと顔を近づけてくる砂和の迫力に、美彩が思わず後ずさる。
しかし、砂和は止まらない。止まらなかった。

「二人に指南するために色々と調べたんだけど、温泉掃除ってほんっとーに奥が深いの! 泉質による違いはもちろん、どのくらいの頻度がベストなのかとか、どんな道具が必要なのかとか、まとまったテキストはないに等しいんだよ!」
「だから何の話!?」
「美彩ちゃんが言ったとおり、博士号を授与できるレベルってこと! これさ、うちの師範学校の科目にしてもらえないかな? 私が先生やる! そして、ゆくゆくは国際温泉掃除学会を開いて、ノーベル温泉掃除学賞を作って、そのきっかけになった湯原温泉の露天風呂の日の名前が世界に轟いちゃったりしちゃったりして……!
 すごい! ワクワクが止まらない! おじさーん、高圧洗浄機貸してくださーいっ!」
「えええええ!?」

 どういう理路でそうなったのか、テンションが最高潮に高まった砂和はデッキブラシを放り出し、高圧洗浄機を使って掃除を始めてしまった。

「じ、自分の手でお掃除するって話は……!?」
「汚れはそんな簡単には落ちません!」
「ヤバい! すっごいかっこいい! 砂和ちゃん、わたしも! わたしにもやらせて!」

 身も蓋もない一言にかがみが立ち尽くす一方で、少年心に火が付いた美彩が目を輝かせて砂和の後を追う。砂和が通り過ぎた跡には、凄まじい勢いで噴き出す高圧洗浄機によって清掃された砂湯の浴槽が、「一番風呂」の時を待って美しく輝いていた。

「みなさーん! 一年でいちばんピカピカな砂湯、ぜひ入っていってくださーい!」

 6月26日、露天風呂の日の朝であった。

(おわり)

文:佐藤寿昭

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