温泉むすめ伝「南紀勝浦樹紀の章」
悩み事があると熊野古道を歩くのが、南紀勝浦樹紀のクセであった。
高等部二年生の身では想像もつかないほどの樹齢を生きる杉の木を左右に見ながら、樹紀は「大門坂」の石畳を行く。神聖で冷厳な古道の雰囲気とはうらはらに、彼女の悩みはあまりに俗っぽいものだった。
「まさか、『温泉むすめ日本一決定戦』に参加するにはスリーサイズを申告しなければいけないなんて……」
事の始まりは、「アイドルとなって地元の温泉地をPRせよ」という天上神・スクナヒコのお触れにある。
温泉地を盛り上げる理念に共感した樹紀はすぐさま参加を決意した――しかし、『温泉むすめ師範学校』の生徒会副会長を務め、次期生徒会長の筆頭候補と目される生真面目な彼女は「アイドル」の仕事をよく知らなかったのだ。
「自分のスリーサイズを公表するなんて恥ずかしすぎます! 南紀勝浦温泉のために頑張りたいのは山々ですが……」
高くそびえる杉を見上げて、樹紀は誰にともなく呟く。
すると、その呟きに「――カアッ!」と鳴き声が返ってきた。
思わず目を凝らす。樹紀の頭上の枝から、黒真珠のような毛並みのカラスが彼女を見下ろしていた。
「カラス!? まさか、熊野の神さま……!?」
熊野では八咫烏を神として信仰している。悩む自分の前に現れた美しいカラスを見て、樹紀は運命を感じた。
――カアッ!
「あ、待ってください!」
一鳴きして飛び立ったカラスを追いかけ、樹紀は歩く足を速める。カラスは彼女からつかず離れずの距離を保ったまましばらく飛んでいくと、やがて、ゆっくりと羽根を畳みながら“主”のもとへと降下していった。
「……あなたは……!」
「フフッ、くーちゃん。何か見つけたの?」
大門坂を抜けたところにある那智山観光センター。その建物の前にいたのは、見知った温泉むすめだった。
彼女は自らの肩に留まったカラスを一撫ですると、悠然と振り返って樹紀を見やる。
「……あら、“なんかつちゃん”じゃない」
そう言って――山代八咫は面白そうに眼を細めた。
♨ ♨ ♨
「は、はあ……。陶芸のイメージを膨らませるために、南紀勝浦のマグロを見に来たと……?」
「ええ。マグロは海の弾丸。機能美を突き詰めた流線型。あの曲線を見ていると、次の作品のアイデアが湧くのよ」
八咫が何を言っているのか分からず、樹紀は思いきり首をひねった。
しかし八咫は「フッ……」と不敵に笑うばかりでそれ以上の説明はしてくれそうにない。芸術家肌の子が考えていることは分からないなあと嘆息して、樹紀は熊野那智大社の境内に目を移した。
平日の午後だというのに参詣者は多く、参拝を終えた人々はもう一仕事とばかりに一様に同じ方向へ歩いていく。彼らの“目当て”であろう大瀑布の名前を出して、樹紀は八咫に尋ねた。
「わたしはこのまま那智の滝まで歩きますけど、八咫さんはどうしますか?」
「フッ。愚問ね」
「……ええと、それは“行く”ですか、“行かない”ですか」
「“行くわ。ただし大門坂を歩いてきて足が疲れているから、もう少し休ませて”という意味よ」
「分かりませんよそんなの!」
樹紀は反射的に突っ込んだ。一事が万事こんな調子の彼女と一緒にいては自分の悩み事どころではない。
「大門坂入口から歩き始めて、なんかつちゃんと会った観光センターまで0.9キロ。そこからこの熊野那智大社まで0.4キロ、合計1.3キロの山道ね。今日はよく歩いたわ」
「あのですね、その“なんかつちゃん”って略すのは禁止です!」と、樹紀はビシッと八咫を指差した。
「わたしたちの名字は温泉地の名前を広めるひとつの手段なんです。“南紀勝浦”と呼んでくれれば、みなさんに地元の名前を印象づけることができますし、何より人の名前を安易に略さないのは基本的なマナーで……」
「あ、くーちゃん。おかえり。また何か見つけたみたいね」
「聞ーいーてーくーだーさーいーっ!!」
渾身の説教を一顧だにされず、樹紀はいよいよ心が折れそうになった。
見れば、八咫の相方であるカラスの「くーちゃん」が一枚の紙をくわえて戻ってきたようだった。八咫の優先順位は明らかに「くーちゃん>>>樹紀の説教」らしく、樹紀は徒労感にがっくりと肩を落とす。
「うう……、もういいです。わたし、お先に那智の滝まで行かせてもらいますね」
「ああ、ちょっと待ちなさい。この紙切れ、くーちゃんが貴女にって」
樹紀がその場を離れようと歩き出すと、八咫が小走りして追いかけてきた。
彼女が笑いながら差し出してきた紙切れを受け取る。その中身を見て、樹紀は目を剥いた。
「なっ……!? なんですかこれは!?」
それは、雑誌のグラビア記事のページだった。
布面積の少ない水着を着たアイドルの写真が目に飛び込んできて、樹紀はくらりと目眩がした。こんな不埒なものを、よりによって熊野那智大社の境内で見せてくるのは流石に容認できず、彼女は八咫を叱りつける。
「八咫さん!! いくら自由人のあなたでも、こういうことは……!」
「落ち着いて。くーちゃんが見せたいのはここよ」
「はあ!?」
八咫が指差していたのは、記事の右下にある“95・54・89”という三つの数字だった。
「……えっ。これは……!」
樹紀は驚きに言葉を失ってくーちゃんに目をやり、もう一度記事を見て数字を確かめる。
“95・54・89”。それは、そこに写ったアイドルのスリーサイズであるらしい。いつもなら「やっぱりスリーサイズなんて下心丸出しの数字じゃないですか!」と怒るところだが、今日の樹紀は不思議とその数字に違和感を覚えた。
「ちょ、ちょっとこれ借りますね!」
半ば奪い取るように記事をひったくって、樹紀はそのページを睨むように眺める。そのまま滝へと歩き出した樹紀の後ろ姿が愉快だったのか、八咫が「フフッ、やはりカラスは導き手ね」と微笑んで追ってくる気配がした。
♨ ♨ ♨
「なんかつちゃん、那智の滝に着いたわよ」
「えっ? あ、もう着いちゃいましたか……」
八咫の声を聞いて、樹紀は我に返る。熊野那智大社から那智の滝まで0.9キロの道のりは一瞬だった。
見上げれば、轟音とともに流れ落ちる日本一の大瀑布がすぐそこにあった。拝所の参入料は気付かないうちに八咫が払ってくれていたらしい。
「素晴らしいわね……」と、八咫がうっとり呟く。
「滝の威容はもとより、その飛沫がもたらすひんやりとした空気が肺に満ち、打ち付ける重低音が内臓を震わせる。体の内側から洗われていくようだわ」
「そうですね。誰かが作り出したわけではなく、これが自然のままの姿だなんて、何度見ても――」
そこまで言いかけて、樹紀はハッと気付いた。
「自然のままの姿……? 自然の……ああーーーーっ!?!?」
勢いよくグラビア記事を見る。「ちょっと。耳障りな声を出さないで」と顔をしかめる八咫には構わず、樹紀は我が意を得たりと高らかに叫んだ。
「分かりました!! このアイドルのスリーサイズ、明らかに盛ってるんです!!」
「何言ってるの!?」
それが、樹紀が感じた違和感の正体だった。
同じ女性だからこそ分かる。どう見てもこのアイドルのバストは95もないし、ウエスト54という数字は細すぎる。ヒップサイズはこの写真からは判断できないが、そもそも89と言われてもいまいちピンとこない。
「そ、そうだったんですね……。アイドルのスリーサイズって、必ずしも現実の数字である必要はないと……」
「は? ずっとそんなことを考えてたの? どこまで真面目なのかしら」
八咫が目を点にしている。彼女の肩にいるくーちゃんも心なしか樹紀に呆れているように見えた。
「そもそも私たちの体はまだ育ち盛り。スリーサイズなんて日々刻々と変わる数字なのよ。おそらくだけど、馬鹿正直に現時点でのスリーサイズを申告する温泉むすめは……五割くらいじゃないかしら」
「そ、そんなあ……。でも、どんな数字ならそれらしく見えるんですか? あまりに明らかな嘘をつくのも……」
「はぁ……」
あくまで真面目にうろたえる樹紀を見て、八咫は「仕方ないわね」と肩をすくめた。
「大門坂入口から観光センターまで0.9キロ、観光センターから熊野那智大社まで0.4キロ、熊野那智大社から那智の滝まで0.9キロ。これが貴女が熊野古道に導かれて閃きを得た距離。 だから――“90・40・90”というのはどう?」
「土偶の体ですかね!?」
結局、樹紀は“90・58・89”と、自らのスリーサイズを申告した。
果たしてこれは八咫の言葉を参考にした数字なのか、あるいは真実の数字なのか――それは今も謎のままである。
Fin.
著:佐藤寿昭