story おはなし

温泉むすめ伝「鬼怒川日向の章」

 これは、五年前のちょっとしたエピソードである。

 中学校に進学したばかりの那須一与は、当時まだ小学生だった鬼怒川日向、塩原八弥ら栃木県の温泉むすめたちを連れて『日光江戸村』に遊びに行った。江戸村には「忍者仕掛迷路」という巨大な迷路があり、彼女たちは「誰が一番早く迷路をゴールするか」で勝負をすることになった。
 一与の記憶によれば、勝負事が大好きな日向はたいそう喜び、やる気に満ち満ちていたという。
 いざ一斉にスタートすると、日向は“本当に本気”で迷路の攻略にかかった。
 なんと、彼女は軽やかな身のこなしで迷路の壁に乗り上げ、木の板でできた壁の上側をぴょいぴょいと飛び移って全ての仕掛けをスルーし、五分とかからずにゴールにたどり着いてしまったのだ――。


「……そのとき、私は思ったの。“異才”ってこういう子のことなんだなあって」

 そう言って、弓道着姿の一与はしみじみと頷いた。

「異才?」と、聞き手を務めていた箱根彩耶が問い返す。

 二人は『温泉むすめ師範学校』にある弓道場の縁側で語り合っていた。校庭には葉桜が揺れて、入学や進学、クラス替えや新入部員集めで慌ただしかった季節が終わりつつあることを告げている。

「そう、天才じゃなくて異才」と一与は微笑む。「“壁の上を渡っていく”っていう型にはまらない発想力でしょ、それを実現しちゃう身体能力でしょ。あとは、それをためらいなく実行しちゃう思い切りのよさというか……」
「まあ、普通は思いついてもやらないよね」と、彩耶は苦笑した。

 彩耶は様々な運動部に友人がいる。そのため、「伝説の体験入部荒らし」――ほとんどの運動部に体験入部に来て、即座に競技のコツをつかみ、圧倒的なワンマンショーを見せつけては「つまんない!」と言い放って去っていった伝説の新入生――“鬼怒川日向”の噂をあちこちから聞いていた。師範学校中の運動部員を震撼させたその新入生の素性が気になった彩耶は、日向と同じ栃木県の温泉むすめである一与に話を聞きに来たのだ。

「なるほどなぁ……。一与は日向さんと付き合い長いんだね」
「うん。でも、日向ちゃんは私みたいな凡人なんて眼中にないんじゃないかな……」
「え? そ、そんなことないと思うけど」
「絶対そうだよ! 私にもうちょっと才能があって、もうちょっと日向ちゃんの考え方を理解してあげることができれば、日向ちゃんがあんなにグレちゃうこともなかったと思うし……」
「グレた?」

 神さまである温泉むすめには似つかわしくない単語を聞いて、彩耶はきょとんと首を傾げた。

「うん。日向ちゃん、二年前くらいからずいぶんやさぐれちゃって……」

 一与はそう言って切なげに目を伏せる。

「対等な相手がいないからかな。体を動かすことが誰よりも好きなのに、どのスポーツをやっても簡単に勝てちゃうせいで、毎日ずっとつまらなさそうに過ごすようになっちゃったの」
「そっか……」

 もどかしそうな一与の横顔を見て、彩耶は言葉を詰まらせる。
 体験入部に来た“鬼怒川日向”について語るときの、運動部の友人たちの喋り様を思い出す。それは、あたかも彼女を「自分たちとは違う存在」と見なして距離を置くような、そんな語り口だった。

「才能がありすぎて、逆に孤立しちゃうってことか……」
「うん。せっかく高等部から師範学校に来てくれたんだし、なんとかしてあげたいんだけど」

 二人の間にしんみりとした空気が流れた――その時だった。
 スパァン! と引き戸を開けて、今しも話していた少女、鬼怒川日向が弓道場に躍り込んできたのは。

「たのもーーーーーーっ!!」
「うわぁーーーーーーっ!?」

 一与と彩耶は縁側から転げ落ちそうな勢いで目を丸くする。
 だが、日向は瞬く間に一与のそばに駆け寄ってその体をサッと支えると、あどけない笑顔でこう言った。

「一与ちゃん、弓道教えて!」

♨      ♨      ♨

 ――ズバ! ズバ! ズバ!

 日向の三連射が鮮やかに的の中央を貫く。案の定、彼女が弓射のコツをつかむまで一時間とかからなかった。

「よっしゃ! なーんだ、思ったより簡単だね!」
「うぐ!?」

 日向は屈託なく笑う。その無邪気な言葉の矢が、ズバ! と一与のメンタルを貫いたようだった。

「す、すごい……!」

 ついでだからと一緒に弓道を体験中の彩耶はいまだに矢をまっすぐ飛ばすことに苦労している。噂どおりの“異才”を目の当たりにして、彼女は間の抜けた感嘆を漏らすほかなかった。
 早くも満足したのか、日向は一与に道具一式を返しながら言う。

「ありがとう、一与ちゃん! いい練習になったよー!
れ、練習!? これ練習だったの!?」

 何気ない一言に激しくうろたえた一与を見て、彩耶は思わず尋ねた。

「どうしたの?」
「あ、えっと……。日向ちゃんが“練習”なんて言うの初めて聞いたから。いつもは持ち前のセンスでなんとかしちゃうし、練習なんてしたことないよね?」
「うん!」

 日向は弾むように頷いて続けた。

「でも、今回はちょっとね。しっかり練習しといて、驚かせたい人たちがいるんだ!
驚かせたい人!? たち!?!?

 とうとう一与はふらりと目眩がしたようだった。想定外の言葉を矢継ぎ早に繰り出す日向に一与が思考をフリーズさせていると、日向は「あ、時間!」と叫んで走り出す。

「一与ちゃん、ホントにありがとね! それじゃ!」

 始終楽しそうに笑顔を浮かべたまま、日向は軽やかな足取りで弓道場を去って行った。
 しばしの沈黙のあと、一与がようやく「日向ちゃんが誰かのために練習するなんて……」と呟く。噂の“鬼怒川日向”とは似ても似つかぬ本人を目の当たりにして、彩耶は驚きを通り越して苦笑してしまった。

「……なんか、グレてるようには全然見えなかったけど」
「うん。日向ちゃん、変わった……! 何かあったのかな?」

 日向が開けっ放しにしていった引き戸の向こうに続く道を見て、一与は戸惑いながら言う。
 驚愕の余韻が残る一与のまなざしは、しかし、どこか嬉しそうでもあった。

♨      ♨      ♨

「お待たせーっ!!」

 師範学校から「お社渡り」でひとっ飛びして、鬼怒川温泉へ。ダンスホールや多目的ホールを備えた旅館がいくつもある鬼怒川温泉は歌やダンスの“練習”におあつらえ向きの場所である。

「遅いわよ。10分前行動」

 ホールに飛び込んできた日向を玉造彗が一喝した。彼女はとうにトレーニングウェア姿である。

「日向が放課後に誰かと予定あるなんて珍しいね~♪」

 別府環綺はちょうど制服の帯をほどいているところだった。悪意があるのかないのか、「日向に友達がいないこと」をナチュラルに揶揄する一言がなんとも彼女らしい。

 日向、彗、環綺の三人からなるアイドルユニット『AKATSUKI』
 つい先日、高等部三年生の二人の先輩とともに、日向はアイドルとしてデビューしたのだった。

 日向が練習着に着替え始めると、話の途中だったのだろう――環綺はすぐに言葉の矛先を彗に向け直した。

「っていうか~、イベントの前座で流鏑馬やるのはおかしくない? アイドルの仕事じゃないよ、絶対」
「神社の境内でライブをさせてもらう代わりに神事の手伝いをする。むしろ温泉むすめの本分でしょう」
「だからって流鏑馬やる? そりゃ日向なら余裕で魅せちゃうだろうけど、私はちょっとな~」
「私たちAKATSUKIのブランドイメージに必要だと思ったから受けたのよ」

 有無を言わせぬ彗の口調に、環綺は「はぁい」と折れて――日向に向かってにっこりと笑った。

「日向。フォローよろしくね♪」
「……日向。貴女は完璧に仕上げておきなさい」

 媚びる環綺に呆れながら彗が言う。そんな二人の顔を交互に見て、日向は自信満々に頷いた。

「うん! 任せて!」

 ここには、自分の本気を求めてくれる人がいる。
 当たり前のように全力を出すことを求められ、当たり前のようにハードルを上げられる。
 『AKATSUKI』――ここが、やっと見つけた日向の居場所だった。

「彗ちゃん、環綺ちゃん! あたしにもっともっと期待してね!」

著:佐藤寿昭

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