温泉むすめ伝「三朝歌蓮の章」
「……わたしと一緒にお酒を飲んでみたい、ですか~?」
そう言って、三朝歌蓮は小首を傾げた。
「うんっ!」と目を輝かせているのは下田莉華である。開国の地・下田の温泉むすめらしく、新しいことへの好奇心が旺盛な彼女は、三朝温泉を訪れて開口一番「歌蓮さん! 飲み会しましょう!」と本題を切り出してきた。
「もちろんいいですよ~。でも、どうしてわたしと?」
歌蓮は素直にそう尋ねてみる。莉華は『温泉むすめ師範学校』の中等部生で、同じく師範学校の高等部に所属している歌蓮との接点はほとんどない。なんなら面と向かって話したのも片手で数えられるくらいの回数しかなく、こうして飲み会に誘われるほどの関係だとは――少なくとも歌蓮は――思っていなかった。
「えっとね、そもそもね、ぼく“温泉むすめはいつでもお酒を飲んでオッケー”ってこと、さっき知ったの」
「あら、そうだったんですね~」
「うん。パパとママもずるいよね! 隠さないで教えてくれればいいのにー!」
莉華はぶすっと頬を膨らませる。コロコロと表情が変わってかわいらしい。
彼女の言うとおり、温泉むすめは年齢にかかわらず飲酒をすることが許されている。許されている、というのは温泉むすめ一同を司る天上神・スクナヒコの方針によるもので、曰く――「下級神とはいえ神である温泉むすめに、年齢は関係ないのじゃ!」とのことらしい。
同様の理屈で許可されているものは他に自動車免許がある。歌蓮が思うに、地酒も然り、運転も然り、“温泉旅行”を彩る要素としてスクナヒコが重視しているということなのだろう。
「ということは、莉華ちゃんは今日はじめてお酒を飲むってことですか~?」
「うん! それでね、みんなにお酒の話を聞いて回ったら、すっごく面白そうな情報が入ってきたの!」
「面白そうなこと?」
「――歌蓮さん!! お酒を飲むと狼に変身するって本当ですか!?!?」
その言葉には、混じりけのない興味だけが輝いていた。
学生の傍ら、歌蓮は看護師として病院に勤めている。看護師をやっていれば大抵のトラブルには対応できるようになるし、おっとりしているようでしっかり者の歌蓮の性格はその経験を通じて育まれたものだ。その歌蓮をして、純粋無垢な莉華の質問には「ええ~……」と、うまい返しが思いつかなかった。
「あ、あのぉ~……。その情報は誰から聞いたんでしょうか~……?」
「美鵺さんと明嶺さんとしじみさんと黒恵さんと綾瀬さんと泉美さんと寧々さんと紅葉さんと日果さんと青井さんと紅さんと雅奈さんと紫雨さんとかすみさんと穂波さんと燈華さんと治佳さんと……」
「はい。よく分かりました」
自分が犯した罪の数を数えられているような気がして、歌蓮は頭を抱えて話を切った。
歌蓮は酒が好きである一方で、酒にはめっぽう弱い。1杯でもいい気持ちになってしまうほどである。だが、「狼になる」と言われるまでの酔い方をしている自覚はなかった――あくまで歌蓮の主観では。
「それで決めたの!」と、莉華は下田の地酒らしき一升瓶を歌蓮に突き出して言った。「ぼくの初めてのお酒は、狼に変身する歌蓮さんと一緒に飲みたい! きっと忘れられない思い出になるって!」
「な、なるほど~……」
むしろ忘れてもらわないと困る。そうでなければ先ほどの告発者リストに莉華の名前が増えるだけである。
歌蓮は下田の地酒の誘惑を堪えて考えた。この穢れなき純粋無垢な少女と飲み会をするにあたってさしあたり必要なのは正しい知識と心構えであり、万が一自分が――自覚がないとはいえ――皆の言う「狼」になってしまったときにそれを止めてくれる第三者の存在だ。
歌蓮は考えた。親友の原鶴美鵺ではダメだ。彼女が酔った歌蓮を止めるのに成功したという話は聞いたことがない。むしろ――今まで盃を酌み交わしたことのない相手で、歌蓮をきっぱりと諫めつつも莉華を正しく導いてくれそうな温泉むすめといえば――。
♨ ♨ ♨
「歌蓮お姉さんと~♪」
「……城崎亜莉咲の」
「お酒の飲み方講座~~!!」
「わーー!! ぱちぱち!!」
三朝温泉の旅館の一室、その机の上に様々な地酒が並べられていた。
その光景に目を輝かせている莉華とは対照的に、呼びつけられた城崎亜莉咲は釈然としない表情をしている。
「……その流れで私が選ばれるの、いまいち納得いかないんだけど」
歌蓮と亜莉咲は師範学校高等部2年C組でクラスメイトである。しかし、亜莉咲自身は頻繁に酒を飲むタイプではないためか、居並ぶ銘酒の数々を前に居心地が悪そうだった。
「いえいえ、じきに亜莉咲先生が適任だと分かりますよ~」
「先生!?」
「はい。今日の亜莉咲ちゃんは、莉華ちゃんに正しい知識を授けてくれる先生ですよ~」
「よろしくね、亜莉咲せんせー!」
「む……!」
歌蓮たちの向かいに座った莉華に人懐っこい笑顔を向けられて、調子に乗りやすい亜莉咲は満更でもなさそうな顔をした。歌蓮はトドメとばかりに彼女に耳打ちをする。
「飲み会の最後には、豪華な松葉ガニも出てきますよ~♪」
「松葉ガニ……!!」
亜莉咲はごくりと唾を飲み込むと、きりっと表情を引き締めてひとつ叩いた。懐柔完了である。
「莉華! 歌蓮! 亜莉咲先生にまかせなさーい!!」
「はいはいはい!! それじゃー亜莉咲せんせーに質問っ!!」
「なに? なんでも聞いていいわよ!」
「“狼になる”ってどういう意味なの!?」
――ガタガタガターーン!!
亜莉咲は机の下面に思いきり膝をぶつけた。歌蓮はにこにこ笑って揺れる瓶を支える。
「あのね、本当に狼に変身するわけじゃないってことはさっき歌蓮さんに聞いたの!」と、痛そうに膝をさする亜莉咲に莉華が畳みかける。「それでね、じゃあどういう意味なの? って聞いたら、それは説明が難しいから、亜莉咲せんせーに聞くといいよって!」
「なんで!?」
「だって、亜莉咲ちゃんって耳年増じゃないですか~。だからきっと、わたしより説明うまいですよ~♪」
歌蓮は3つのお猪口に酒を注ぎながらのほほんと告げた。優しげな口調ながら身も蓋もないその態度は看護師に特有のそれで、妙に貫禄がある。
「耳年増ってなに!? そんな理由で私を呼ん……「亜莉咲せんせー!! ぜひ教えてください!!」
亜莉咲の言葉を遮り、莉華はそのくりっとした両目を宝石のように輝かせる。亜莉咲に逃げ場はなかった。
「亜莉咲ちゃん、頑張ってください~♪」
歌蓮は小さく手を叩いて亜莉咲を応援する。亜莉咲はそんな歌蓮を一睨みして言葉を探し始めた。
「そ、そうねえ……狼になるっていうのは、ほら……あれよ! 肉食系女子! 肉食系女子になるってこと!」
「肉食系!! 確かに狼っぽい!!」
「そうそう! がおーっ、って一緒に飲んでる人を襲ったり食べちゃったりして!」
「襲って食べる!? じゃあさっきのみんなは歌蓮さんに食べられたってこと!? でも生きてるよね!?」
「え? あ、ヤバっ……」
亜莉咲が豪快に藪蛇を踏み、ますます説明が難しい単語の方に莉華の興味を惹いてしまった。
「うふふ~♪ 亜莉咲ちゃんを呼んで正解でした~♪」
そのやりとりを眺めて、歌蓮はホッと気を緩める。莉華に初めてのお酒を楽しんでもらうためには、やはり酒席そのものが賑やかなのが一番である。
せっかくだし、もうひとりくらい面子を見繕おうか――そう思って、歌蓮がスマホに目を落とした時だった。
「あーーーーもうっ!! 歌蓮っ!! あんたが自分で説明しなさいよ!!」
「むぐぐ!?」
突如として亜莉咲がお猪口をひとつ手に取り、歌蓮の口に強引に酒を流し込んできた。
原酒でありながらワインのように芳醇な香り。角の取れたまろやかな口当たり。三朝温泉の白狼伝説の名を冠する、歌蓮イチオシの地酒の味が口内いっぱいに広がると、歌蓮は自分の体がふわりと浮かんだような錯覚をおぼえた。唇に押し当てられた亜莉咲の指の感触と、驚いて歌蓮を見る莉華のくりくりした瞳の輝きが妙に強く印象に残って――
――そこで、歌蓮の記憶は途絶えた。
その日以来、“なにか”がクセになったらしき莉華は歌蓮のことを「お姉さま♡」と呼ぶようになり、クラスで一緒の亜莉咲にはしばらく松葉ガニのごとき横歩きで距離を取られるようになった。
鳥取県三朝温泉、「新・白狼伝説」の誕生である――。
著:佐藤寿昭