story おはなし

温泉むすめ伝「松江しんじ湖しじみの章」

「お待たせ。頑張ってくれてる肝臓くんに安らぎの一杯を――はい、どうぞ!」

 

 グラスやつまみが広げられたテーブルの上に、松江しんじ湖しじみは柔らかな湯気がふうわりと立つ漆器の汁椀を置いた。滋味のたっぷり染み出していそうな味噌汁の中に、宍道湖で獲れた大粒のしじみがあふれんばかりに浮かんだ、彼女特製のしじみ汁である。

 

「はぁぁ~、やっぱりしじみちゃんのしじみ汁は染みるぅ~」

 

 ズズっと勢いよく汁を啜った霧島黒恵は、椀から口を離すと深い溜息を吐いた。

 

「ええ。しじみのしじみ料理はやっぱり格別ですわね」

 

 形のいい鼻を椀に近づけてしじみ汁の香気を楽しんでいたおごと寧々も、ひと口味わうと微笑む。

 

「おかわりも沢山あるから、遠慮なく言ってね?」

 

 ほっと一息ついた様子のふたりを見て満足したしじみは、目の前に一望できる宍道湖に目を移しながらウッドチェアに腰かけた。日の入り間近の宍道湖は、静かに水面を揺蕩わせている。

 ここは島根県松江市、しじみが暮らす旅館のテラスである。連日の酷暑を乗り越えようと、3人は暑気払いと称してまだ明るいうちから酒宴を開いていた。

 

「そういえば、しじみちゃん今日はサイドアップなんだね~。珍しい~」

「最近暑いし、ちょっと気分を変えてみたくって。どうかな?」

「ええ。とってもよくお似合いですよ」

 

 酔っ払った黒恵が茶々を入れて、しじみと寧々が朗らかに答える。そんな取り留めのない会話をして宍道湖の名物である夕焼けの訪れを待っていた3人だったが、ふと黒恵がこんなことを言った。

 

「いやぁ~、雄大な自然の中で一献ってのはやっぱりオツよね~。私たちの仲も深まるってワケよ~!」

「……ぎくっ」

 

 ――仲が深まる。

 何気ない黒恵の言葉に、しじみはふたりに会ったときから押さえつけていた緊張が揺り起こされるのを感じた。

 その緊張の原因、寧々を盗み見て、小さく息を吐く。

 実は今日、しじみは寧々に聞きたいことがあった。だが、意識すればするほど緊張してどうしようもなくなるので今まで飲み込んでいたのだ。このままでは気になって気になって夜も眠れない――だからといって、あんな恥ずかしいことを一体どんな顔して聞けばいいのだろう。

 

 聞けるわけないよね……寧々に、まさか私のこと好き!? なんて……!!

 

「……大丈夫でしょうか?」

 

 不意に寧々が声をかけてきて、しじみはハッと我に返った。

 

「えっ!? 私はもちろん大丈夫だよ!!?」

「いえ、黒恵さんのことなのですけど。だいぶ酔っぱらってらっしゃるので」

「あ、あぁそれね!? 黒恵ちゃんのは特濃しじみ汁でなんとオルニチン10倍だから安心して!!」

「はぁ……」

「でもでも確かに水分は必要だよね! ほら黒恵ちゃん、お水――きゃっ!?」

 

 水の入ったチェイサーを取ろうと慌てて立ち上がったしじみは、蹴躓いて倒れ込んだ――その瞬間、寧々が咄嗟にしじみの体を受け止めた。

 しじみが呆然と寧々を見ると、彼女は優しく微笑む。

 

「お怪我はありませんか?」

「……ふぁッ! ごめん!!」

「ふふ……。もしかして、しじみも酔いが回ってきたのでしょうか? お可愛いらしいですね」

「ち、違うの!」

「なら、お熱でしょうか」そう言って、寧々は流れるような所作でしじみの額に自分の額を当てた。

「――ッッ!!?」

「お熱もないみたいですが……ホストだからといってあまり無理をしないでくださいね?」

 

 寧々が覗き込むようにして見つめてくると、しじみは余計に顔が熱くなるのを感じた。芸術的ともいえる寧々の少女漫画アクションにしじみの心は暴走寸前である。

 

「ね、寧々ちゃん……! やっぱり私のこと……!?」

「ひゅ~ひゅ~! いいぞー、おふたりさ~~ん~~!」

「うっ!!?」

 

 ザ・酔っ払いとばかりのねちっこい黒恵のヤジのおかげで、しじみは辛くも理性を取り戻す。

 

 やっぱりだめ! 恥ずかしすぎるし、『わたしのこと好き?』だなんて、物凄くうぬぼれてる感じがする!!

 

 心の中で盛大に独り相撲をとりながら、しじみは鼓動が高鳴るに任せて寧々を見つめる。寧々の端正な顔に、ほのかに赤みがさしていく……と、その赤らむ顔の影が次第に濃くなってきて、ようやくしじみは気がついた。

 宍道湖へと視線を向けると、辺り一面が茜色に染まっていた。いつの間にか日の入りがやって来ていたのだ。

 

「……とろけそうな夕日」

 

 世に名高い宍道湖の夕景へ吸い寄せられるように、しじみは寧々の腕の中からすらりと立ち上がった。

 瞬間、一陣の風が吹き抜けた。

 ゆるくサイドアップにまとめていた彼女の髪が風にほどかれる。その細く美しい髪は西日を受けて輝きながら、清水のように音もなく肩口から腰元へと流れ落ちた。夕日を背に淡い闇と仄かな光を身に纏ったしじみは、濡れた瞳でまっすぐに寧々を見つめ、蠱惑的に笑った。

 

「みっともない姿を見せてごめんなさい。私が聞きたかったのはね、あなたの気持ちなの、寧々」

「はあ。気持ち、ですか?」

「私のこと好きって言ってたけど……あれ本当なのかな?」

「ぶふぁぁぁーーーッッ!?」

 

 思わずしじみ汁を吹き出した黒恵を意に介さず、しじみは手近にあった鞄から雑誌を取り出すと、折り目のついたページを開いてみせた。彼女に先んじてアイドル活動を始めている寧々のインタビュー記事である。

 

「ほらここ。寧々の好きなものは『しじみ』なんですってね?」

 

 しじみが指したのは寧々のプロフィール欄だった。確かにそこにはしじみが言う通りのことが記されている。

 

「……ああ」ひとつ頷くと、寧々はさして動じずに微笑み返した。「それはもちろんしじみ料理のことですよ。宍道湖だけでなく、私の地元の琵琶湖でもしじみ料理は有名ですから」

「私が寧々の立場だったら、誤解のないように“しじみ料理”って言うけど。友達に同じ名前の子がいるんだから」

 

 しじみが一歩、寧々へと迫る。寧々は動かない。

 やがてふたりは手の触れ合う距離まで近づくと微笑みあった。

 

「寧々の琴、聞きたいな。私のために弾いてくれない?」

「あらあら」

 

 宍道湖の夕焼けの中、少女たちはふたりだけの世界を創る。朱い世界にあるのは、あなたとわたし、そして――。

 

「私! 私がいるよ!!」

 

 急な展開に置き去りにされていた黒恵が雄叫びを上げた。

 

「っていうか、なに!? なにがあったの!? しじみちゃんどうしたの急に!! なんというかこう、アダルトしじみちゃんになって!! しじみ汁をくれた私のヤングしじみちゃんはどこへ行ったの!?」

「あら、黒恵さんご存じなかったのですか? しじみは夕日を浴びると魔性の女へ変貌するのです」

「……なんて?」

 

 松江しんじ湖しじみは特殊な体質の持ち主で、夕焼けの時間にだけロマンティックな色香を放つ。一度遭遇したら忘れられないその変貌っぷりだが――彼女は宍道湖の夕日を愛し、宍道湖の夕日を見るために放課後はすぐ下校するため、“魔性のしじみ”の姿はあまり知られていない。

 

「驚かせたならごめん。自分では無意識なんだけど……変、かな?」

 

 しじみは黒恵の手をきゅっと握り締めた。その絶妙な握り加減に、黒恵の心はつぶさにくすぐられてしまう。

 

「あ~~ん変じゃな~い!! マイスイ~トハ~トしじみちゅわぁ~~ん!!」

 

 がばりと抱きついてきた黒恵の背中をしじみが優しく撫でていると、寧々が笑った。

 

「しじみもアイドルになってみませんか? 人の心にふれるお仕事――向いていると思いますけど」

「そうね……」

 

 しじみは茜色に輝く宍道湖を見やった。見る人の心にふれる――まるでこの夕焼けのようだ、としじみは思う。

 

「それもありかも。ただし、活動するのは夕焼け前までの時間限定のアイドルだけど」

「あら、随分中途半端ですね。それでは見る方の心を掴むのは難しいと思いますが」

「その分努力するわ。手始めに寧々の心を捕まえてあげてもいいんだよ?」

 

 いたずらっぽくしじみが言うと、寧々はくすりと口元に手を当ててくすりと笑って席を立った。

 

「せっかくのいい夕です、一曲弾きましょうか。しじみと、黒恵さんのために」

「ふふっ、つれないなぁ」

「大丈夫! 私がつれたよ! 私もうずぶずぶのしじみちゃんファンだよ~~~!!」

 

 空に菫色が広がり始め、夕焼けの終わりを告げる。だが、賑やかな初夏の夜はもうしばらくだけ続くのだった。

Fin.

written by Ryo Yamazaki

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