温泉むすめ伝「登別綾瀬の章」
「……ああ、主よお赦しくださいっ!! この私ともあろう者が、今週末に控えたライブのリハを一度も成功させていないのです!!」
そう言って、平戸基恵は部屋の中央に跪いた。
自身の罪を告白し、神に赦しを乞う行為――いわゆる「告解」である。温泉むすめでありながらお勤めでシスターとしても働いている彼女は、些細な悩み事でも自らの「主」に祈りを捧げる習慣がある。温泉むすめは十人十色の個性を持ち、また持つことを尊ばれているから、基恵のこの習慣も特別おかしなものではない。
「しかし主よ、どうか見ていてください。練習を重ね、全てを捧げてでもライブに間に合わせてみせます。主よ……」
――ただし。
「……基恵、ここで言われても困るんじゃが」
ただし――彼女が告解室がわりにしているのが、『温泉むすめ師範学校』の校長室でなければの話だが。
「あらスクナヒコ様、たまには司祭役になってくれてもいいじゃない」
「天上神を司祭呼ばわりするでない!」
スクナヒコは呆れたようにツッコんだ。
「ほらほら、わしは忙しいんじゃ。そういうのはおぬしの“主”のところでやれ。……綾瀬ーっ!」
「――はい、スクナヒコさま」
ぱんぱん、とスクナヒコが手を叩くと、窓際に控えていたらしき人影がスッと前に出た。
切れ長の瞳に鼻筋の通った小顔の美人である。腰まである絹のような黒髪がすらりと伸びた手足の印象をより強くしていて、立っているだけで室内が華やぐ――それほどの存在感がある女性でありながら、どういうわけか――今の今まで基恵は彼女が室内にいることに気付かなかった。
「ちょ、ちょっとアンタ誰!? 今は大事な告解の時間なの! 邪魔しないでくれる!?」
「ごめんなさいねぇ。スクナヒコさまの命令には従わないと」
「離せ、このスクナヒコ様の犬! 私は自分のペースを乱されるのがいっちばん嫌いなの! ねえ聞いてる!?」
「綾瀬」と呼ばれた女性は基恵の腰に手を回し、エスコートするような体捌きで彼女を校長室の扉へと導く。さほど力をかけられているわけでもないのに、基恵の足は不思議と彼女に従って動き出した。
「聞いてるわよぉ♪」と、綾瀬は目を細めて笑った。「そういうことなら、登別温泉に行きましょうか♪」
「何をどう聞けばそうなるの!?」
体の動きを完全に掌握された基恵にできることといえば、せめて口では抵抗することだけであった。
♨ ♨ ♨
「ああ主よ。この私ともあろう者が、どうしてライブ前の大切な時期に足湯にいるのでしょうか……」
綾瀬に“エスコート”され、基恵は北海道・登別温泉の「大湯沼川足湯」にやってきた。
この足湯は登別温泉の「温泉力」を感じられる人気スポットである。基恵が足を浸しているのはよくあるような東屋の足湯ではなく、「温泉の川」。それも、火口からあふれた源泉が渓流として流れる100%天然の川なのだ。
「どう? 大自然そのままの足湯だから、森林浴もできて気持ちいいでしょ?」
「……そうね。温泉街からここまで、山道を30分近く歩かされたことに目をつむればだけど」
「それにしても、やっぱり私が見込んだとおりだったわ。基恵ちゃん、すっごく脚が綺麗ね♪」
「あら、ありがと。自分でも脚には自信があるのよ!」
そう言って基恵は足湯から右脚を持ち上げ、見せびらかすように艶めかしく前後に曲げ伸ばした。ただ細いだけではない、確かな肉感と凹凸のある脚線美は彼女の自慢である。
(……と、褒めてくれるのはいいんだけど、何者なのかしらコイツ)
初対面なのに基恵が褒めてもらいたいところを的確に見抜いているのもかえって胡散臭い。ここに至るまでの道中で基恵が得られた情報といえば、彼女が登別温泉の温泉むすめで“登別綾瀬”という名前であること、温泉むすめ師範学校高等部の3年B組であること(基恵は2年C組なので、ひとつ先輩だ)、そして、何らかの理由でスクナヒコに仕えている忠実な部下であるということだけだった。
「……そういえば、登別の温泉街には鬼のオブジェがたくさんあったけど、なんなの? 不吉じゃない?」
さらなる情報を求めて、基恵はあえてカマをかけるように尋ねた。
「あ、湯鬼神ね♪」と、綾瀬はこともなげに笑う。「確かに“鬼”って一般的には悪や不吉の象徴だものねぇ。でも、登別で鬼は温泉の守り神なの。ここは“鬼の街”なのよ♪」
「なるほど。平戸にとってのキリシタンみたいなものね!」
基恵は一瞬で目的を忘れて自分の話に持っていった。自信家の彼女は自分語りが大好きである。
「平戸温泉はキリシタン文化で有名だものねぇ」
「そのとおり! だから私はシスター……。温泉の神でありながら、現世では主に仕えるシスターなの!
でも……ああ、そのせいかしら! リハがうまく行かないのは!」
「というと?」
「温泉の神でシスターって、なんか矛盾してる気がしない? その矛盾を主が罰してるのよ!」
両手で顔を覆って、基恵は大げさに肩を落とした。
聞き手の綾瀬はというと、どこか優しげなまなざしで基恵を見つめて「なるほどねぇ」などと頷いている。どこまで基恵の悩みを理解しているのかは分からないが、少なくとも自分の話に真剣に耳を傾けてくれているようだった。
基恵は気をよくして、唐突にライブMCの原稿をうたいあげる。
「――『私のライブを観たいなら、そこにひじゃまじゅいてこんぎゃんするのね!!』」
だが、どうにも滑舌が悪い。基恵は不機嫌に足湯のお湯をばしゃばしゃ蹴飛ばしながら続けた。
「今のは私の決め台詞。普段なら絶対にミスらないのに噛んじゃうの。他にも、踊り慣れてるダンスのステップとか、歌い慣れてる曲の歌詞とかも。この私がこれほどミスするなんて、大いなる罰としか思えないわ」
「確かに不思議ねぇ」
「ま、スクナヒコ様の犬をやってるっぽいアナタには分からない悩みかもしれないわね」
足湯の効能で体が少し汗ばんできたため、基恵はハンドタオルを取り出してお湯から脚を抜いた。ここまでの山道を歩いてきた重い疲れはすっかり溶けてしまって、かわりに全身をまろやかな眠気が包んでいる。
「……眠い?」
隣で、綾瀬が優しく微笑んだ気配がした。
「ん。少し……ね」
あくびを噛み殺しながら基恵は答える。
言葉にして眠気を認めたとたん、どっとまぶたが重くなった。そういえば近頃はライブの準備やリハーサルでよく眠れていなかったから、そのせいかもしれない――そんなことを思いながら眠気に抗っていると、基恵の肩にふわりとタオルケットがかけられた。
「だいじょうぶ。少し寝ていきましょう?」
まるで子守歌のような声色に促されて、基恵は“その人”の肩に頭を預ける。
「……ん。じゃあ、お言葉に甘えて……」
今日会ったばかりの“その人”からは安心する香りがして、基恵はあっという間に意識を手放した。
♨ ♨ ♨
基恵が目を覚ましたのは、だいたい2時間後のことだった。
登別温泉街に戻ってきた頃にはすっかり日が沈んでいて、今日はもうライブに向けた練習はできそうにない。貴重な時間を失ってしまったにもかかわらず、基恵は足取り滑らかに街を歩いていた。
「――私のライブを観たいなら、そこに跪いて懇願するのね!!」
滑らかなのは足取りだけではなかった。噛み噛みだった決め台詞もばっちり決まっている。
「あははっ、絶好調ね! まったく、この私ともあろう者が寝不足に気付かないなんて。っていうか主があんなつまらないことで罰を与えるわけないし、何を悩んでたのかしら……。ねえ、綾瀬♪」
「ふふ、そうね」
調子を取り戻した基恵を嬉しそうに眺めながら、綾瀬は「温泉むすめって自分の温泉地を背負ってるから、なにかと頑張りすぎちゃうのよねぇ」と笑った。
「そ、そうかもね。……あら、あんなところに大きな閻魔大王がいるわ」
さすがの基恵も「頑張っている」と正面から褒められるのはこそばゆい。彼女は軽く目を泳がせて、ぱっと目についた鮮やかな朱色のお堂と、その中にいる大きな閻魔大王像を指し示した。
「ああ、閻魔さまも登別温泉の守り神なの」と言って、綾瀬は慣れた手つきで閻魔大王像に賽銭を捧げた。「せっかくだから、基恵ちゃんのライブの成功をお祈りしていきましょうか」
「あら、ありがと。私は主以外には祈らないけど、気持ちだけいただいて……あれっ?」
基恵は軽い口調で綾瀬に礼を言おうとして、はたと気付いた。
綾瀬にとっての“主”はスクナヒコではなかったか。スクナヒコの命令に従い、スクナヒコの指示を忠実に実行する――そんな役目を務めているのは、綾瀬が当然に“スクナヒコを敬っているから”ではないのか。
「……ちょっと綾瀬。アナタ、スクナヒコ様を信仰してるんじゃないの!?」
「あら、そんなこと言ったかしら」
思わせぶりに目を細めて笑う綾瀬の表情を見て、やっぱりコイツは分からないと基恵は思った。
著:佐藤寿昭