温泉むすめ伝「祖谷メグリの章」
今にも崩れそうな吊り橋を渡りながら、祖谷メグリはひとり興奮していた。
「むふふ……! これは……ある。きっとこの先にまだ見ぬ秘湯があるわ……!!」
メグリの趣味は秘湯探し、それも地元の人でさえ知らないような幻の秘湯を求めて各地を探検することだ。当然、丸一日を費やしても手がかりすらつかめないことがままある。
だが、今回は違う。奥深い山中に突然現れたいかにも怪しいボロボロの吊り橋――床板はところどころ腐り、手すりがわりの鉄線は細くていかにも頼りない――この先には何かがあると、メグリの嗅覚が告げていた。
「待ってなさいよ、秘湯! こんな吊り橋、『かずら橋』に比べたら屁でもないんだから……!!」
徳島県は祖谷渓にかかる恐怖の橋・『かずら橋』に思いを馳せながら、メグリは一歩ずつ足を進めていった。
『かずら橋』は、シラクチカズラという植物を編んで作られた吊り橋で、メグリの地元・祖谷温泉で人気の絶景スポットである。だが、歩くたびに大きく揺れるその原始的な構造のため、恐怖で最後まで渡れない者も多い。
かくいうメグリも、かつては「渡れない側」のひとりだった。しかし、橋を渡っていく人々を見るうちに、向こう側に何があるのか自分も見てみたくなった。その想いは日に日に膨らみ、ある日、メグリは勇気を出して一歩を踏み出した。揺れる橋にすくむ体を奮い立て、一歩、また一歩と進んでいき――彼女は『かずら橋』を渡り切ったのだった。
メグリが想いを募らせていた「向こう側の景色」そのものは何の変哲のない景色だったが、その日は何もかもが輝いて見えた。その晩、義母がお祝いに炊いてくれた赤飯の味と祖谷温泉の湯の温もりは今でも忘れられない。
あの感動を求めて、メグリは今もこうして探検に赴いている。危険を顧みず、まだ見ぬ景色と秘湯のために――
「――って、行き止まりぃぃぃ!?!?」
もっとも、そう簡単に成功するはずもないのだが。
吊り橋を渡った先にあったのは、ずいぶん前に放棄された木こり小屋であった。温泉が湧いている様子はなく、他に続く道もない、完全な行き止まりである。
「もーっ!! 絶対何かあると思ったのにぃーーっ!! くやしいくやしい、くやしい~~~っ!!」
メグリが奥歯を噛みしめて地団駄を踏んでいると、バックパックの中で着信音が鳴った。
「お? ここ圏内なんだ」
スマホを取り出して画面のロックを解除する。どこの基地局なのか、わずかに1本だけアンテナが立っている。
送られてきたのはメッセージで、差出人は神奈川県・強羅温泉の温泉むすめ、強羅かんなだった。
「うっ!? か、かんなから……!?」
その名前を見た瞬間、メグリは嫌な予感に顔を歪めた。
♨ ♨ ♨
「メグリちゃん、今日はありがとう! 一緒にホラー映画を観たいだなんて、怖いもの知らずのメグリちゃんにしか頼めなくて……!」
「あ、あはは……。ぜ、ぜ~んぜんいいわよ!」
後日、メグリはかんなと共に東京のシネコンを訪れていた。
経緯はかんなの言葉のとおりである。可愛らしい外見に反して大のホラー好きの彼女は、どこで勘違いしたのかメグリの「探検好き」を「怖いもの知らず」と思い込んでいるらしく、メグリをよくホラー映画に誘ってくるのだ。
「やっぱホラーといえば邦画だよね! 何も起きないのに怖い……あの独特の間がヒリヒリたまらなくて……!」
「うぐ!? そ、そうね……。あれは怖いわよね……」
だが、メグリは決してホラー映画が得意なわけではない。
ホラー映画は危険を感じても引き返せない。閉鎖空間でひたすら怖い映像を見せられるのは「探検」とは大違いだ。しかし、楽しそうに話すかんなを見るとどうしても断り切れず、いつも付き添うはめになってしまうのだった。
「それにね、この映画には潤目アリアも出演してるんだよ!」
「……潤目アリア?」
「知らない? 大人気アイドルの! インディーズシアターだし、もしかしたら関係者の人も観に来てるかも……!」
かんなはパンフレットを見つめてうっとりと言う。どうやら、そこに「潤目アリア」とやらが載っているらしい。
「へー……。そういうもんなんだ」
だが、メグリはアイドルにも全く興味がなかった。
『温泉むすめ日本一決定戦』の開催宣言を受けて、温泉むすめたちも続々とアイドル活動を始めている。メグリが所属するワンダーフォーゲル部にもアイドルブームが押し寄せていたが、メグリにはそれが面白くない。
「……ドキドキ度なら、アイドルより探検の方が上だと思うんだけどな~」
かんなに聞こえないようにぽつりと呟くと、メグリは映画館の座席に深く腰掛けた。すぐにシアター内が暗くなり、予告が始まる。
本編開始直前に髪の長い女性が慌ただしく入ってきて、メグリの右隣の席に座った。
映画はさびれた旅館に辿り着いた男女が怪奇現象に巻き込まれるという、よくあるホラー映画だった。
スクリーンの中で、主人公の女子大生が廃旅館の廊下を歩いていく。そのたびにギィ、ギィと床がきしむ。今にも床が抜け落ちそうな廊下を、幽霊が出てくるかもしれない恐怖に怯えながら一歩ずつ歩いていく……。
やがて彼女は一番奥の部屋の前に到着した。だが彼女は立ち止まったまま、ドアを開けることができない。
彼女の鼓動に合わせるようにして、メグリの鼓動も速くなった。映画館のひじかけに置いた手にも力が入る。
いきなり扉が開いて、画面いっぱいに女の幽霊が浮かび上がった。
「ひっ!?」
メグリは驚き、そのはずみで――ひじかけに置いていた右手が、ふっ、と隣の女性の手と触れた。
「あ! すみません……!」
咄嗟に右隣を見る。隣の女性もメグリを見ていて、大丈夫よ、と言わんばかりに優しく微笑む。
その瞬間――ドクン、とメグリの心臓が鳴った。
メグリは慌てて目をそらした。もう二度と手が触れないように両手を太ももの上に置き、スクリーンを見上げる。
だが、そうして映画に集中しようとすればするほど、メグリの胸は高鳴る一方だった。ドキドキが止まらない。顔は熱く、体は火照り、自分の鼓動だけがやけに大きく聴こえる。まるで全身が心臓になってしまったかのようだ。
このドキドキは何だろう……。
横目で隣の女性を盗み見る。スクリーンを見上げる彼女の横顔は美しくて――メグリの鼓動はさらに速くなる。
もはや映画の内容など全然頭に入ってこなかった。メグリの頭の中は右隣に座っている名前も知らない彼女のことでいっぱいだった。彼女がそばにいると思うと、自分の体が熱を持ったようにのぼせていく。
私、どうしちゃったんだろう?
メグリはぼーっとする頭で必死に考えた。必死に考えて――ふと答えに思い至った。
そうだ。これは恋なのだ、と。
上映終了後、気付いた時にはもう右隣の彼女はいなくなっていた。
「は~……! 怖かった! 面白かったね!」
「うん、ドキドキした……」
嬉々として声を弾ませるかんなを前に、メグリは上の空だった。上の空のまま映画館を出て、上の空のままカフェに寄り、上の空のままかんなに相槌を打っていると――かんなが広げたパンフレットが目に飛び込んできた。
「あっ……!」と、メグリは声を上げる。
なんと、そこには――あの時の彼女が笑顔で写っていたのだ!
「ちょっと貸して!」とパンフレットをかんなからひったくるように取って、そのページを食い入るように見る。そこには彼女の名前がでかでかと書かれていた。
「あの人が……。そっか……。そうだったんだ……!!」
映画でまさかの幽霊役を演じた人気アイドル。大人気グループ『ラクア』のセンターを務める彼女の名前は――。
♨ ♨ ♨
「ねえねえ、潤目アリアって知ってる!?」
翌朝。師範学校に登校したメグリは、部活仲間で登山仲間の二人に映画館での出来事をいの一番に話した。
「潤目アリアが隣にいたの!? すごーい!!」と高山匠美が素直に感激してくれる一方、メグリと付き合いの長い観音登世実は「それ、“吊り橋効果”ってやつじゃない?」とからかってくる。
「はぁ!? 何言ってるのよ! このドキドキはホントーにホンモノよ!!」
「まあまあ、登世実ちゃん。思い込んだら一直線なのがメグリちゃんのいいところだから」
「そうよ! 今日からあたしもアイドル始めるんだから!」とメグリは胸を張る。「そうだ、これ見て! 昨日買ったダンスレッスン用のトレーニングウェア! アリアさんが使ってるのと同じなんだ~♪」
そう言って、メグリはおろしたてのウェアを楽しげに抱きしめる。
「メグリってば……。今までアイドルなんて全然興味なかったくせに」と、登世実が肩をすくめる。
「でも、一緒にアイドルできて嬉しいな! メグリちゃんも楽しそうだしね!」と匠美は目を細めた。
そして、二人は「まあ……」と顔を見合わせると、口を揃えて言った。
「「絶対、吊り橋効果だけどね」」
著:黒須美由記